大作曲家にして大指揮者のマーラーが精神分析の始祖フロイトの元を訪ね、若い妻アルマの不倫を知ってしまった心の動揺を明かす・・・という史実と想像を織り交ぜて作られた映画だ。原題は「寝椅子の上のマーラー」という意味で、この寝椅子はもちろん、フロイトが精神分析を行う際に患者を横になってもらうカウチのことである。しかも、アルマの不倫相手は若き日の建築家グロピウスであり、その他にもアルマの元カレの画家クリムトはもちろんのこと、作曲家のツェムリンスキー、大指揮者のブルーノ・ワルターやオットー・クレンペラーまで登場し、そしてあのフロイトまで加わるのだから、20世紀初頭のヨーロッパ文明のオールスターが集っているようなものである。
しかも、映画の中では常にマーラーの『交響曲第10番』を中心とするマーラーの名曲が流れるのである。これでは、音楽ファンなら見る前から嫌でも期待が高まるはずだ。
しかし、実際に見てみるとこれが何だか微妙に面白くないのだ。もちろん、とても丁寧に作られている映画だし、音楽だけでなく映像にも手抜きはない。ストーリーもわかりやすいし、脚本もかなりよく練られていると思う。それなのに、映画として見ると何だか面白くないのだ。
理由は多分、映像で全てを語り過ぎたため、余韻というものが全くなくなってしまったことだ。登場人物の会話の全てに映像をつけてしまったから、何から何までくど過ぎるのである。例えて言えば、「君はバラのように美しい」という台詞にバラの映像をかぶせちゃうんですよ、この映画は。もちろん、「バラという言葉だけではバラを知らない人にはバラの美しさが伝わらない。だから、そういう人のためにバラの映像が必要なんだ」という理由付けは可能だし、映画監督はそのように考えているのかもしれないが、普通の感覚で言えば、これは余計なお世話以外の何者でもないと思う。要するに、余韻というか行間の美が全くない映画なのだ。
例えば、グロピウスからアルマに宛てた恋文をマーラーが読んでしまい、アルマを問いつめるシーンなどがそれだ。愛の言葉が綴られたグロピウスの手紙からは、二人が性的関係を持っていることは明らかだろう。むしろ、大人同士なんだからプラトニックな清い関係でした、と考える方がおかしい。しかしだからと言って、二人のベッドでの激しいセックスの様子を見せる必要はないのである。だって、観客はその手紙だけで二人が何をしているかはわかるからだ。だから、普通ならここにセックスシーンは挿入しないし、むしろ入れないのが普通だろう。ここではセックスシーンを入れなくても「何が起きたのか」はわかるからだ。
ところがこの映画では、なんと生々しいセックスの様子を延々と流すのだ。もしかしたら、「映画を見ている人の中に、愛し合っている二人がどういう行為をするのかわからない人がいたら理解できないだろう。こういう人たちのために、セックスがどういうものか、実際に見せた方が親切だ」と考えたのかもしれないが、これこそ余計なお世話である。「ベッドで二人は何をしているの?」というようなお子ちゃまはそもそも、こんな映画は見ないからだ。
そういうわけで、この映画には過剰な説明ばかり目立つ。不足しているのは余韻である。語るに落ちる、とはこういうことを言うのだろうな、という見本である。
通常なら、この映画のストーリーを紹介して、その上でさらにレビューを書くところだが、この映画についてはもういいかな、という気がする。映像で全てを語っているため、言葉で説明しても空しいのだ。
これだったら,同じマーラーを素材にしたもう一つの映画《マーラー》の方が,玄人受けのするマニアックな部分が多く,しかも映像が美しい分,音楽ファンにはおすすめである。
一応、この映画を鑑賞するために必要と思われる事実のみ列記する。
(2012/03/23)