新しい創傷治療:クララ・シューマン 愛の協奏曲
《クララ・シューマン 愛の協奏曲》★★(2008年,ドイツ/フランス/ハンガリー)
ここ数年,クラシック音楽の作曲家や演奏家を取り上げた映画が多く,クラシック音楽好きとしては避けて通れないところだが,どうも出来のよくない映画のほうが多いのである。その原因は多分,映画の作り手がその映画で取り上げた作曲家にそもそも興味がないのか,あるいは単なるメロドラマを作りたくて音楽なんてどうでもいいか,いずれかだろう。
そしてこのシューマンの映画だが,残念ながら凡作だった。前回紹介したショパン映画のように「見るも無残」というほどひどくはないけれど,クラシック音楽ファンをも唸らせるような深みはないし,「ブラームスとクララの恋愛」にしても現在では「証拠なし」と断定されているため,21世紀の今,「エビデンスなし伝記映画」を作ってもしょうがないような気がする。
そして何より,この映画を見てもシューマンの音楽の魅力(・・・と書いたが,実は私はシューマンのピアノ曲は嫌いである)は伝わってこないし,クララ・シューマンがどれほど傑出したピアニストだったのかもこの映画からはわからないし,若きブラームスの天才ぶりも伝わってこない。
何より駄目なのは,この映画で描きたかったのがシューマン夫妻の愛情なのか,ブラームスとクララのプラトニック・ラブなのか,それが最後までぼやけたままなことだ。こんな事なら,クララ・シューマンという女性の生涯にだけ焦点を合わせ,当時の演奏会の常識を打ち破った偉大なピアニストにして,作曲家ロベルト・シューマンを支えた女性,そしてブラームスが女神のように讃えた演奏家・・・という物語にすべきだったと思う。
ロベルト・シューマン(パスカル・グレゴリー)と妻のクララ・シューマン(マルティナ・ゲデック)はヨーロッパ中を演奏旅行に明け暮れる日々を送っていて,ロベルトはそういう生活に次第に疲れていたが,1850年にデュッセルドルフの音楽監督の職を得てようやく安住の地に落ち着くことができた。そして,ピアニストの妻クララはそういう夫を支えていた。しかしその頃からロベルトは「頭の中で鳴り響く音」に悩まされるようになっていた。
その頃,ロベルトのもとに「私の曲を見て下さい」と楽譜を一方的に送りつけてきた若者がいた。まだ20歳の酒場のピアノ弾き,ヨハネス・ブラームス(マリック・ジディ)だ。当時のドイツ音楽界では,ロベルトは「ベートーヴェンの後継者」と目されていたが,ブラームスの荒削りのピアノソナタの背後に恐るべき才能が隠されていることを感じ取り,彼こそが「真のベートーヴェンの後継者」であることを知る。そしてロベルトは自宅の一室にブラームスを住まわせる。
シューマン夫妻の子供たち(ちなみに,ロベルトとクララの間には8人の子供が生まれている)はすぐにブラームスになつき(何しろ,父親のロベルトは頭痛持ちで子供たちの遊び声も耐えられなかった),一方,ブラームスは自作の「ソナタ第2番」をクララに捧げた。ブラームスにとってクララは偉大な演奏家であり女神のような存在だったが,次第に彼はクララ本人への恋愛感情を抱くようになる。それを知ったロベルトは苦悩し,酒に溺れ,次第に精神を病んでいった。
そんな中でロベルトは『交響曲第3番 ライン』を完成させ,妻のクララの助けを借りて初演にこぎつけるが,演奏は観客総立ちの大成功となり,この交響曲は不朽の名作の評判を得る。しかし,ロベルトの精神の病は進行し,彼はライン川に投身自殺し・・・という映画である。
この映画の大前提は「クララ・シューマンとブラームスの間には恋愛感情があった」ということだ。実際,二人は非常に親しい関係であったし,ロベルトの死後,クララとその子供たちをブラームスが助けたのも事実だ。しかし,二人の間に恋愛感情があったと断言する証拠はなく,あるのはせいぜい「なんちゃって状況証拠」だけである。何しろブラームスにはアガーテ(ブラームスの『弦楽六重奏曲第2番』はこの女性の名前をとって「アガーテ六重奏曲」と呼ばれている)という女性との婚約不履行という前科もあり,マザコン男だったのではないかとする説も根強い。要するに,この映画の大前提自体が怪しいのである。
しかも,この映画ではロベルトの精神異常の原因を「妻クララと若き天才ブラームスの不貞(?)関係に悩んだこと」としているが,これは明らかに誤りだ。シューマンの死因については19世紀後半にカルテが公開されていて,彼の精神異常の原因は脳梅毒(クララとの結婚前に娼婦から伝染されたらしい)であり,解剖所見からもそれが裏付けられているのだ。つまり,ブラームスがいてもいなくても,ロベルトは発狂して死んだのだ。ちなみに,ロベルトは1854年頃から精神病院に入院していて,当時から脳梅毒と診断されていたが,それは妻のクララには伝えられず,彼女が事実を知ったのは最晩年のことらしく,激しいショックを受けたことが記されている。ちなみに,クララは「ほとんど毎年妊娠していた」が,それでも梅毒が伝染らなかったようだ。
というわけで,最初の時点でイエローカードが出てしまう映画であるが,その他について気が付いたことを箇条書きにする。
- まず,年齢関係はロベルト・シューマンは1810〜1856年,クララ・シューマンは1819〜1896年,ヨハネス・ブラームスは1833〜1897年となる。つまり,クララはロベルトの9歳年下(結婚したときはロベルト30歳,クララ20歳だ),ブラームスはロベルトより23歳年下,クララより14歳年下である。
- シューマンの『交響曲第3番 ライン』が初演されたのは1850年。ブラームスがシューマン宅を最初に訪れたのは1853年9月30日。つまり,ブラームスが登場する3年前に『交響曲ライン』は初演されていた。
- この映画では,第3交響曲「ライン」の大成功のあとにブラームスを「私の後継者」と紹介し,そこでブラームスは自作の『ハンガリー舞曲第5番』を演奏するが,これは完全におかしい。『ハンガリー舞曲』が作曲されたのは1867年(楽譜の出版は1869年)だからだ。要するに,ロベルトの死後に作曲された曲であり,ロベルトの生前に演奏することは不可能。
- ちなみに,ブラームスは10代の終わり頃,あるバイオリニストとともにドイツ各地を演奏ドサ回りをしていて,この時にロマ(ジプシー)の音楽の魅力に目覚め,それを「ハンガリー民族固有の音楽」と勘違いして採譜を続けていた。後にこれは『ハンガリー舞曲集』の素材となるが,彼はこの曲集に作品番号を付けずに出版していた。「オリジナル作品でなく編曲である」というのがその理由。そしてこの『ハンガリー舞曲集』が大受けすることになり,それを知ったバイオリニストは「これは盗作だ」と訴訟をおこしたが,ブラームスの勝利で訴訟騒動は終結。「自分の作品でなく編曲だ」と最初から楽譜に書いてあったことが決め手だったという。
- クララは,ユーロ導入前のドイツマルク紙幣に肖像が使われていたくらい超有名で敬愛されている女流ピアニストである。
- クララの父親ヴィークは当時のヨーロッパで最も高名なピアノ教師であり,娘のクララにスパルタ教育したことで知られている。つまり,「星一徹と星飛雄馬」の関係である。その甲斐あって,クララは卓越したピアニストに成長した。
- 19世紀前半では[演奏家=自作の曲を演奏する作曲家]だった。つまり,ショパンは自作の曲だけを演奏し,メンデルスゾーンは自分の曲のみを演奏した。そういう中で,クララは「自作でなく,過去の名作・他人の名作の演奏」で演奏会を行った史上初のピアニストである。これには,父親ヴィークの「作曲家の精神と意図にできる限り近い演奏をすることが演奏家の使命だ」という教えが背景にあったようだ。
何しろ,当時の音楽界は「いかに人より目立つか。いかに人より派手に演奏するか」という競争の時代である。そういう時代に「楽譜に忠実に演奏する」なんてピアニストとしては自殺行為のはずだが,それなのにクララは演奏家として名を馳せたのだ。彼女がピアニストとしてどれだけ卓越した存在だったかがわかる。
- これは「演奏家=作曲家」の時代から,「作曲家と演奏者は別」の時代へという音楽史の変化も意味している。つまり「作曲の才能がないピアニストは食っていけない」時代から,「楽器は弾けないが作曲の才能がある or 作曲はできないが楽器は弾ける」人間でも音楽で食っていける時代へという変化である。
- これは,[産業革命でピアノが大量生産される]⇒[過程にピアノが普及する]⇒[ピアノが弾ける人が多くなる]⇒[ちょっと弾ける程度では商売にならない]⇒[プロとして食って行くなら卓越した演奏技術が必要]⇒[作曲の片手間にピアノを弾く程度では食っていけない]⇒[作曲家とピアニストが別の商売として分離せざるを得ない]ということも関係している。
- ロベルトは「ピアニスト養成ギプスを付けてピアノ練習をして指を痛め,ピアニストを断念して作曲の道を選んだ」というのが定説だが,どうやらこれは嘘らしい。近年の研究では「右環指の関節部分の腫瘍が元で指が動かなくなったことが直接の原因」とされている(ピアノの師匠のヴィークの書簡にそのような記述があるらしい)。指の腫瘍というと巨細胞腫だろうか?
- この映画を見ると,クララは「筋骨たくましく,大柄な女性」のように見えるが,実際は違っていたんじゃないだろうか。若いころのクララの肖像画はこれ。華奢で清楚ではかなげな美少女である。
- クララ・シューマンが作曲家としても才能に恵まれていたことは同時代の音楽家たちが証言していて,映画の中でも数曲登場する。私は彼女が編曲した「ロベルト・シューマンの歌曲によるピアノソロ編曲集」の楽譜を持っているが,ピアノ曲としてみるとどれも二流以下の作品であり,今日,敢えて演奏する意味はないと思う。
- ブラームスというと,あの「髭のじいちゃん」を思い出すが,若いころの彼はイケメンである。かなりモテモテだったらしい。それでも生涯独身だったのだから,もったいない話である。
- それにしても,映画の後半の「クララとブラームスのベッドシーン⇒ブラームスがクララのオッパイをモミモミするシーン」は余計である。というか,そこまでしても「最後までは手を出さない」ブラームスの方が変というか不自然だ。
ちなみにこのシーンの直後にブラームスの『ピアノ協奏曲第1番』をクララが演奏するシーンにつながるが,ここは違和感がありまくりだ。無数に存在する幾多のピアノ協奏曲の中で最も深淵で真摯な内容を持つこの曲と,ベッドシーンを繋げないで欲しい。この映画のこういう無神経さが嫌だ。
- ブラームスに「バッハのシャコンヌによる左手のための練習曲」という曲がある。あのバッハの名曲『無伴奏バイオリンのためのシャコンヌ ニ短調』を左手だけで演奏する編曲だが,これはクララのために作られた曲だ。右手を故障してピアノが一時的に弾けなくなったクララを慰めるために,左手だけで演奏できる曲を書いて彼女に贈った曲の一つである。
- 精神病院でロベルトが手術を受けるシーンはかなり怖い・・・というか,外科の歴史としてみるととても面白い。精神病の治療として行われていた「頭蓋の一部に穴を開ける手術」であるが,どう見ても無麻酔で行われている。
ちなみに,笑気麻酔の公開実験が成功したのが1846年,最初の無痛分娩は1847年であり,シューマンが入院したのはその8年後であり,全身麻酔は医学界にどれほど普及していたんだろうか。
- 実を言うと,私は中学,高校生の頃からシューマンのピアノ曲は好きでなかった。ピアノ曲として変に弾きにくい割に響きが貧弱でピアノが鳴らないし,響きは鈍重だし,部分的に素敵なところはあってもそれが続かないし,曲想が続かなくなると中途半端で逃げるし(例:「クライスレリアーナ」の第7曲目),ショパンの完成度と独創性に比べると月とスッポンだと感じたからだ。この感覚は今でも変わらない。
- ショパンとシューマンの違いは,「先行者はいないが後継者だらけ」と,「先行者はいるが後継者はいない」の違いだ。もちろん,ショパンが前者,シューマンは後者だ。まさに「私の前に道はない。私の後に道はできる」だ。ショパンは先導者なしに突然変異のように音楽史に出現し,ショパン以後,ピアノ音楽にショパンの亜流が溢れ,その影響は20世紀まで続いた。逆にシューマンのピアノ曲の影響は軽微であり,シューマン風のピアノ曲はごく一時期流行しただけだった。
- シューマンの「交響練習曲」,ショパンの「24の練習曲」,リストの「パガニーニ練習曲(1856年版でなく1838年版)」,そしてブラームスの「パガニーニ変奏曲」とそれぞれの練習曲の代表作を並べてみると,シューマンはやはり一段落ちるなぁ,と思う。
- シューマンといえば「憧憬,夢,幻想」だが,これはシューマンの専売特許ではなく,19世紀前半の音楽界の流行みたいなものであり,流行に乗っただけである。
- シューマンは当時,「ベートーヴェンの後継者」と称されていたが,これは過大評価であり,ベートーヴェンに失礼と言うものだろう。もちろん,ベートーヴェンの後継者はブラームスである。
- シューマンが音楽史に残した功績とは,ショパンを発見し,ブラームスの才能を正当に評価したことだけだと思う。
- ブラームスはこの映画にあるように20歳頃から作品を発表しているが,「交響曲第1番」を発表したのは実に40代になってからである。ベートーヴェンの偉大さの前で,安易な曲が書けなくなったのだろう。しかし,10年以上の呻吟の末に生み出された「交響曲第1番」は真の傑作であり,「ベートーヴェンの第10番目の交響曲」である。
- そういえば,シューマンの作品1は『アベッグ変奏曲』であり(ちなみに「作品番号」は出版社が出版順につけた番号であり,作曲順の番号ではない),この映画にも登場する『ピアノソナタ 第1番 嬰ヘ短調』は作品11であるが,これはシューマンが正式の音楽教育を受けていないためだ。当時の常識としては「作品1はピアノソナタ」でなければいけないからだ。つまり,19世紀では音楽学生が受けた教育の集大成(=卒業制作)として公的に一番最初に発表するのがピアノソナタであり,それはコンテストに出品されるべき作品だったのだ。だから当時は「ピアノソナタ第1番 作品1」が常識であり「賞金ソナタ」と呼ばれていたのだ。ちなみにショパンの作品1もブラームスの作品1も「ピアノソナタ」である。
(2012/04/17)
Top Page