新しい創傷治療:ヤコブへの手紙

《ヤコブへの手紙 "POSTIA PAPPI JAAKOBILLE"★★★★★(2009年,フィンランド)


 とてもいい映画である。淡々としたシーンのみで描かれた大感動作である。わずか75分,主要登場人物はわずか3人のフィンランド映画だが,なんと豊穣で奥深く,味わい深い作品なのだろうか。盲目の牧師と恩赦で出所したばかりの殺人犯の中年女性の会話がほとんどを占めているが,必要最小限の言葉と表情の変化で必要なことは説明している。しかし,全てを明示するようなことはせず,鑑賞者側があれこれ想像を膨らませる余地を十分に残している。

 そして,キリスト教を根底にしていながら,扱っている問題は普遍的だ。聖書の言葉が至るところで引用されるが,それは神学的な解釈を越えて人間が生きることの意味の深淵に及んでいる。


 レイラ(カーリナ・ハザード)は殺人を犯して終身刑を言い渡されていたが,12年目のある日,恩赦で出所することになる。しかし彼女は身寄りがなく,行く宛もない。そこで刑務所の所長は熱心に彼女の減刑の嘆願を出していたヤコブ牧師(ヘイッキ・ノウシアイネン)の牧師館での住み込みの仕事を提案し,レイラは渋々その提案をを受け入れる。

 盲目で高齢のヤコブ牧師は「手紙を読み,返事を書く仕事だけしてくれればいい」と説明する。それまである村人にお願いしていたのだが,彼女が老人ホームに入所してしまったため,郵便配達人(ユッカ・ケイノネン)が毎日配達してくれる手紙を読むことも返事を書くこともできなくなってしまったからだ。その手紙には様々な悩みを抱えた人々が救いの言葉を求めてヤコブに書いたものだった。しかし,人生を放擲してしまったレイラはヤコブに心を開こうとせず,届けられた手紙を捨てたりしてしまう。

 そんなある日,郵便配達人は牧師館の前を素通りするようになる。あれほど毎日のように配達された手紙が,突然来なくなってしまったのだ。それを知ったヤコブは翌朝,正装に身を包み,結婚式を執り行うために教会に向かうが,そこは無人だった・・・という映画である。


 この映画は明示されているストーリーだけを追うととても単純な物語だ。生きる意味を失って自暴自棄になった中年女性が盲目の牧師の真摯な生き方に接し,人生を取り戻していく再生の物語だ。そのように見ても十分に感動的な映画だと思う。だが,こういう「明らかな物語」から一歩踏み込んでいくと,さらに豊穣な世界が広がっていく。それらをネタバレにならない程度に書いてみようと思う(・・・かなり難しい作業だが)


 郵便配達人はなぜある日突然,手紙を届けなくなったのだろうか。何しろヤコブの元にはそれまで,一日に何通もの助けを求める手紙が舞い込んできたのだ。それが突然来なくなるのはいかにも不自然だ。だが,これは多分,そもそも手紙が○○だったから,と解釈すべきだろう。

 ヤコブの両眼は白く濁っているから,診断名は白内障でいいはずだ。紅茶を入れたりする動作がよどみないことからすると,かなり以前から光を失っていたのかもしれない。とすると,ヤコブは手紙の内容を誰かに読んでもらわなければいけないことになる。最後の方でヤコブはレイラに「手紙を通じて私は誰かに必要とされていることがわかる」といい,「手紙によって自分が生きている意味を知る」というように話す。つまり,手紙でのみヤコブは世界と繋がっている。そして,そのことを村人たちもよく知っている。だから,郵便配達人は毎日郵便を届けたのだ。

 レイラが牧師館で暮らすようになってから手紙が来なくなったのは,もう「ヤコブへの手紙」が必要なくなったからだろう。つまり,ヤコブにとってレイラがその「役割」を担うことになり,役割を終えた「手紙」は届かなくなったのだ。


 その象徴的なシーンが,最後に郵便配達人がレイラに手渡した最後の郵便物であるファッション雑誌(そもそもこんなものが牧師館に届くこと自体がおかしいが)を,レイラが手紙として読むシーンだ。彼女は「ヤコブにとって何が必要か」を理解したからこそ,ファッション雑誌を「ヤコブへの手紙」として朗読する。つまり,ファッション雑誌だろうがポルノ雑誌だろうが,それを「手紙」に変えるすべを知っている誰かがいれば,それがヤコブの生きる糧になる。

 そう考えると,あの「廃墟の教会での無人の結婚式」の意味も明らかだろう。「手紙」を失ってしまったヤコブは,かつて村と自分を繋いでいた象徴である教会に戻るしかなかったのだ・・・たとえそれが廃墟であっても・・・。


 唯一不自然なのは,レイラの終身刑という刑の重さだ。もちろん殺人犯ではあるが,殺した相手は●●であり,▼▼をDVから守るために刃物で刺したのだ。おまけに彼女自身がDVの被害者だ。通常なら情状酌量の対象だろうし,まして彼女は初犯である。それで終身刑というのはちょっと無理があったかもしれない。

 この映画のタイトルは明らかに,新約聖書の『ヤコブの書』によるものだろう。となれば,レイラが終身刑であり,12年目に恩赦を受けるというのも『ヤコブの書』などの聖書に登場するエピソードを換骨奪胎したものである可能性があるが(もちろん,全く的外れの予想であるかもしれないが・・・),私にはよくわからない。このあたりについてご存じの方がいらっしゃったら,是非ご教示いただきたい。


 このように極めてキリスト教的な映画であり,同時にキリスト教を離れた普遍性を持っている映画だ。そしてあらゆる人に受け入れられるであろう素晴らしく感動的な映画だ。

(2012/04/27)

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