新しい創傷治療:哀愁のトロイメライ〜クララ・シューマン物語〜

《哀愁のトロイメライ〜クララ・シューマン物語〜 "Fruehlingssinfonie"★★★(1983年,ドイツ)


 邦題はいかにもいかにもという感じの甘ったるいタイトルだが,原題は《春の交響曲》,つまり,クララ・シューマンの夫ロベルト・シューマンの第1番交響曲から取られている。とは言っても,余程のクラシック音楽ファンでなければ「春の交響曲ってなんだっけ」状態だと思うので,「シューマンといえばこの曲」という看板曲のタイトルを持ってきたのは興行的にはありだと思う。

 ちなみにこの映画は米ソ冷戦下の東西ドイツで初めて作られた合作映画であり,クララ役は西ドイツ出身で輝くばかりに美しい21歳のナスターシャ・キンスキー,クララの父親ヴィーク役は東ドイツの俳優ロルフ・ホッペである。

 先日,シューマン夫妻とブラームスの関係をテーマにした映画を紹介したが,映画としてはこちらの方がきちんと作られている(・・・面白いかどうかは別にして)。映画の中で用いられている曲の選択は概ね納得できるものだし,人間関係はわかりやすいし,時系列の前後関係も明確だ。
 ただ,「これで映画が終わっちゃうの?」というラストは不完全燃焼気味であり,もうちょっと感動盛り上げ型のラストシーンにして欲しかったが,何しろクライマックスが凡作『交響曲「春」』だから,これが限界だったかもしれない。


 ヨーロッパでもっとも高名なピアノ教師であるヴィーク(ロルフ・ホッペ)は娘のクララ(ナスターシャ・キンスキー)が並外れた音楽の才能を持っていることを見出し,幼い頃から英才教育を施す。そして,父親の期待に応え,11歳にしてクララは天才ピアニストとして名声を欲しいままにしていた。

 一方,ロベルト・シューマン(ヘルベルト・グレーネマイヤー)は父親の命令で大学で法学を学んだが,音楽への愛着を捨て切れず,20歳を過ぎてから音楽家となるべくヴィークの門を叩く。ヴィークはロベルトの才能を認め,ヴィーク宅の住み込み門下生となる。

 クララは大ピアニストへの道を順調に歩むが,ロベルトは「ピアニスト養成ギプス的練習器具」を使ったために指を故障してしまい,ピアニストの道を断念せざるを得なくなる。
 しかしロベルトには文才があり,音楽新聞を発行して評論文を書き,若い才能の発掘と紹介に努めるようになる。

 そして,ロベルトとクララは愛し合うようになるが,ロベルトは小規模のピアノ曲を発表しているだけの無名作曲家であり,一方のクララは最も有名な女流ピアニストだった。当然,クララの父親ヴィークは二人の仲を裂こうとする。そこでロベルトはクララに「二人の結婚を成就するために裁判所に訴訟を起こそう」と提案し・・・という映画だ。


 ロベルトとクララが結婚に至るまでの紆余曲折は,ピアノ音楽ファン,クラシック音楽好きなら誰でも知っていると思う。

 今でこそロベルト・シューマンは音楽界のビッグネームだから,天才音楽家と天才ピアニストの結婚に反対する父親はなんて時代遅れなんだと思ってしまう。
 しかし,当時の一般的評価としては,ヴィークは音楽教師として最も高名な一人であり,その娘のクララは天才ピアニストとして超有名だったが,一方のロベルトはピアニストでもないし作曲家としても二流の存在に過ぎず,音楽評論という海のものとも山のものともしれないしがない文章書きでしかないのだ。要するに不釣り合いである。普通なら,こんなダメ男に大事な娘(しかも,ヴィーク家で唯一音楽の才能があるのはクララのみで,他の子供は音楽家になっていない)をやれないと父親が考えるは当然であるし,私も同じ立場だったら反対したと思う。
 要するに,今日的な言い方をすれば,クララは「ダメンズ・ウォーカー」なのだ。


 ロベルト・シューマンが特殊な器具を使って練習して指を痛め,それでピアニストになることを断念したというのは有名な逸話だが,実は嘘らしい。ピアノの師匠のヴィーク先生の証言によると「右環指にできた腫瘍(?)が原因でピアノが弾けなくなった」そうである。

 この映画の中では従来の「シューマン伝説」を踏襲して,右中指をおもりをつけた糸で釣り上げて練習する様子(映画の中では自作の「トッカータ Op.7」の重音の連続を練習している)が描かれている。実際,この時代にはこのような「ピアニスト養成ギプス」的練習器具が何種類も考案され,「努力せずに素早く指が動かせるようになりたい」と考える手抜き野郎たちが使っていたそうだ。
 ちなみに映画の中のシューマンは,中指を吊り上げているが,これは解剖学的に素早い動きが苦手の環指を集中的に動かすための仕掛けだろう。


 映画はヴァイオリニストのギドン・クレーメルがパガニーニに扮して『カプリース第17番』(ピアノ弾きにとってはリストの『パガニーニ練習曲第2番』といったほうが解りやすいだろう)を演奏するシーンから始まる。[パガニーニ=マルファン症候群]説が唱えられるほど痩せぎすで背が高く,手も指も異様に長かったと言われるが,クレーメルは外見からもパガニーニにピッタリである。おまけに演奏がこれまたムチャクチャ上手い。確かにこの演奏を聞いたら,若き日のリストが「俺はピアノのパガニーニになるんだ!」と気が狂ったように猛練習を始めたのも納得だ。

 このシーンは音楽好きにはたまらなくいいシーンであるが,この映画全体の中では全くの意味がなく,その後に繋がらない無駄シーンである。この映画がリストを主人公としたものならパガニーニの演奏から映画を始めるのがふさわしいが,シューマン映画ではパガニーニで始める意味はないと思う。


 この映画の中ではシューマンの音楽仲間としてメンデルスゾーンが登場して,「無言歌」の一節をピアノで演奏したり,シューマンにアドバイスして『交響曲「春」』の完成に協力する。これはこれでいいのだが,メンデルスゾーン役の俳優が髭面男というのは明らかに変だ。メンデルスゾーンの肖像画は何枚も残されているが,ちょっともみあげが長い程度で,あご髭や口ひげを生やした肖像画は一枚も残っていないからだ。映画監督がなぜこの俳優に,史実に反するメイクをするように命じたのか意味不明である。


 この映画は史実に忠実に丁寧に作られている。使っているピアノも現代のコンサートグランドでない古いタイプのピアノだし,風俗や習俗についての時代考証もきちんとしている。その意味では模範解答みたいなものだ。
 だが,全体を見終わった時に記憶に残る印象的なシーンがほとんどないことに気がつく(11歳のクララの入浴シーンは,そっちの方のマニアにはたまらんものがあるかもしれませんが・・・)

 多分,音楽史の教科書としてはこれでいいのかもしれないが,芸術作品となるためには,決定的な「何か」が欠けているような気がする。

(2012/05/04)

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