2時間11分間,ただただ圧倒されるばかりの映画だった。戦争を生み出す相互の憎悪,内戦を泥沼化させる憎しみの連鎖,その憎しみの次代を生き抜いた「歌う女」と呼ばれるテロリスト,そして彼女を見舞うギリシャ悲劇をも凌駕する凄惨な悲劇,そして,最後の最後に明かされる「歌う女」の慈母の如き無限の愛と浄化。これはなんという映画だろうか。こんなものすごい映画はおそらく生涯に数回しか出会えないだろう。それほど凄みを感じさせる作品である。
それと同時に,このくらいの作品になるとレビューを書くことすら困難だ。どこから書き始めたらいいのか,その時点ですでに迷ってしまう。この映画について書くことは,人間の戦争の歴史について書くことであり,宗教紛争について考察することであり,民族紛争について分析する作業だからだ。いわばそれは,人間の歴史を俯瞰する作業にも等しい。
この2時間11分の映画は,そういう「現代における人間と戦争の諸問題」を見事に捉え,分析し,しかも完璧に構成された悲劇であり,崇高な叙事詩に昇華させているのだ。
私にできることはせいぜい,表面のストーリーをなぞり,ネタバレしない程度に筆を抑えることだけだろう。それこそが,この偉大な悲劇と再生の物語に対する私なりの精一杯の賛辞だ。
ちなみに映画の原作になったのは,ワジディ・ムアワッドの同名戯曲。ムアワッドは1968年にベイルートに生まれ,8歳でレバノン内戦に巻き込まれてフランスに亡命した経験を持っていて,現在はカナダに住んでいるそうだ。この戯曲は4つの戯曲から生る戯曲集『約束の血』の2番目の作品で,第1部は『沿岸』,第3部は『森』,第4部『空』である。原題の《 Incendies》は「火災」の意味だが,「地獄の業火」のニュアンスもあるという。
ちなみに本作品は第83回アカデミー賞外国語映画賞候補作にノミネートされながら,惜しくも受賞を逃したそうだ。この年の外国語映画賞を受賞したのは《未来を生きる君たちへ》であった。
最初の舞台は現代のカナダ。双子の兄妹,ジャンヌ(メリッサ・デゾルモー=プーラン)とシモン(マキシム・ゴーデット)は母親のナワル(ルブナ・アザバル)の突然の死の後,公証人のルベル(レミー・ジラール)から奇妙な遺言状の中身を明かされる。そこには次のようなことが書かれていた。
この奇妙な遺言を聞かされてシモンは反発する。そうでなくても「世間に背を向けて」生きてきたおかしな母親だったからだ。だから彼は,世間一般がするように墓を作って埋葬し,兄も父も探すのはやめようと考える。しかし,ジャンヌは母親の遺志に従い,家に残された若い頃の母の写真を手がかりに,母親の人生をたどる旅にでる。ここまでが最初の章『双子』だ。これ以降物語は,ナワル(1949年生まれ)の激動の人生と,それを丹念に解きほぐしていく40年後のジャンヌのし型が交互に描かれていく。
第2章『ナワル』。ナワルは中東某国のキリスト教を信仰する村で生まれた。だが,20歳のナワルは異教徒の難民の青年と恋に落ち,子供を身ごもってしまう。しかしそれは一族の名誉を汚す行為だった。青年は無残にも射殺され,やがてナワルは出産するが,その子供は祖母に取り上げられ里子に出されてしまう。
第3章『ダレシュ』。出産後,ナワルは亡国の徒海に住む叔父の自宅に身を寄せ,旧宗主国のフランス語を学ぶが,自分の生んだ子供のことを忘れたことは一時もない。だが,1974年当時の某国ではキリスト教徒とイスラム教徒の紛争が次第に激化し,内戦の様相を呈していた。そんな状況にもめげず,ナワルは我が子が預けられたという孤児院を尋ねるが,そこは既にイスラム武装勢力の襲撃を受けていて廃墟と化していた。そして彼女自身の身にも危険が迫っていた。
第4章『デレッサ』。窮地を脱したナワルはデレッサという街に到着するが,ここも既に廃墟だった。息子の手がかりを失ってしまったナワルはここでキリスト教への信仰を捨て(?),イスラム武装勢力に加わり,キリスト教右派の指導者の暗殺計画に加担する。フランス語が話せるナワルは指導者の子供のフランス語教師として潜入に成功し,指導者を射殺する。ナワルは逮捕され,南部にあるクファリアット監獄に送られ,ここで政治犯として過酷な15年を過ごすことになる。
第5章『クファリアット』。刑務所でナワルは「歌う女」と呼ばれていた。どんな拷問を受けても毅然とし,歌を歌っていたからだ。そんなナワルの精神を破壊するために「拷問人」タレク(アブデル・ガフール・エラージズ)が監獄に送り込まれ,ナワルは性的拷問を受け,その結果,妊娠してしまう。ナワルは何度も流産を試みるが,ついに臨月を迎え,子供を出産する。子供を取り上げた看護婦は子供を殺すように命じられていたが,その命令に反して子供を助けてしまう。
ここまでの母親の過酷な人生を知ってしまったジャンヌは,弟のシモンに連絡する。それまで「我関せず」の態度を取っていたシモンだったが,ここまで知らされてしまうと無視できなくなる。そして,公証人ルベルとともに姉の待つ某国に旅立つ。
第6章『サルワン ジャナーン』。第7章『ニハド』(=ナワルが最初に出産した子供の名前),第8章『シャムセディン』(=ニハドの孤児院を破壊して孤児たちと連れ出し,テロリストに育て上げた張本人)と進み,次々に真相が明らかにされる。それはジャンヌとシモンの予想をはるかに超え,そして観客の「楽観的予想」を鼻先で笑うような衝撃的な物語である。ここから先は物語を明かさないのがこの偉大な作品に対する礼儀だと思うし,110分過ぎから明かされる事実の深淵に慄き,身震いせよ。
そして,「兄に宛てた手紙」,「父に宛てた手紙」が朗読される。なんという内容だろうか。なんという愛だろうか。そして最後に明かされる「双子の兄妹への最後の手紙」に涙せよ!
憎しみの連鎖は何も生み出さない。憎悪の連鎖は破壊しかもたらさない。だから,どこかで誰かが「憎しみの連鎖」を断ち切るしかない。無謀な試みであっても,いつか誰かが断ち切らねばならない。だからこそ,最も過酷な「憎しみの試練」を受けたナワルが断ち切るしかない。
繰り返すが,この作品は数十年に一度の大傑作だ。端倪すべからざる偉大な作品だ。
(2012/09/14)