ラストのジャズの演奏は見事だし,年老いたジャズメンたちの一期一会の演奏シーンは確かに感動的だ。だが、演奏のすばらしさの割に感動が妙に薄いのだ。50年間、押さえつけてきた情熱と情念を一気に解放させる演奏でなければいけないのに,「単に上手いプロの演奏」でしかないのだ。見ている方はもっと感動に浸っていたいし、感動する準備もしているのに、感動のピークがトランペットの最初のソロにあり、その後にそれを上回る感動がやってこないのだ。
なぜなんだろうか。音楽映画好きとしてはラストに演奏シーンがあり、そこで観客の涙を絞るであろうことを予想しながら見ている。そして私もそのラストの感動シーンで感動しようとして待ちかまえて見ている。それなのに・・・である。何がダメなんだろうか。なぜこれだけの名演奏が「映画としての感動」に結びついていないのだろうか。
そんなことばかり考えてしまった映画だ。
主人公の貴島大翔(鈴木亮平)は大学のジャズ研でトランペットを担当しているごく普通の学生だ。両親(陣内孝則&古手川祐子)は仲がいいし、姉は結婚間近である。しかし、そういう幸せな家庭に突然異分子が入り込む。父親から50年前に死んだと教えられていた祖父・健三郎(財津一郎)が実は生きていて自宅に引き取ることになったのだ。その祖父は50年間、ハンセン病の隔離施設で暮らしていた元患者だった。
そして、健三郎は大翔の家で一緒に暮らすようになるが、もちろんただでは済まない。ハンセン病患者がいることを知った姉の婚約者は婚約破棄を言い渡し、母親は突然現れた健三郎のことを近所に知られたくない。そして、大翔自身も祖父にどう応じていいか戸惑っている。しかし、健三郎がかつてジャズ・トランペッターだったことを知ったことから、祖父と孫のぎこちない交流が始まる。
しかし、ある日突然、健三郎が姿を消してしまい、警察から祖父を保護しているという連絡が入り、孫の大翔が引き取りに向かう。そこで健三郎は自宅に戻らない、自分には行かなければ行けない場所があると告げる。
健三郎は50年前、「Cool Jazz Quintette」を率いていた。そして彼らに神戸の老舗ジャズクラブ「SONE」から出演依頼がくる。このクラブのライブ演奏が成功すれば、メジャーデビューへの道が開かれる。しかし、彼らはステージに立てなかった。トランペット担当の健三郎がハンセン病に罹患していることわかったのだ。当時、ハンセン病は治療法のない恐ろしい感染症であり、発見されるとそのまま隔離施設に送られ、そこで患者は死ぬまで隔離された。そして「Cool Jazz Quintette」は空中分解した。
そして、かつてのメンバーを探し出そうとする健三郎の旅が始まり、孫と祖父の奇妙なロード・ムービーが幕を開ける・・・という映画である。
まず映画の冒頭、スクリーンには厚生労働省推薦、日本医師会推薦の文字が映し出され、ハンセン病を巡る過去の悲惨な歴史が説明される。要するに、厚労省と日本医師会がバックについて、ハンセン病差別廃止を訴える啓蒙映画である。もちろん、啓蒙映画であろうと教育映画であろうと、映画自体が面白く感動的なら別に構わないが、やはり映画を見る方とするとここで身構えてしまうのは仕方ないだろう。
そして映画であるが、余りに破綻がなさ過ぎるのだ。余りにお行儀よく作られ、映画の教科書に載っているお手本を読まされている気分になってしまう。登場する人物は善人ばかりだし、おまけにあらゆることが都合よく進みすぎる。
孫の大翔が自宅にあった謎のジャズバンド「Cool Jazz Quintette」の演奏にはまっている、という設定はいいとしても、LPプレーヤーが自宅にあっていつも聞いている、というのは21世紀の現代ではちょっと無理があるし、第一「自宅にLPプレーヤーがあり」という時点でありえないと思う。また、数あるジャズの名盤があるうちで、この素人バンドの演奏に魂を奪われ、何度も繰り返し愛聴していた、というのはどう考えても非現実的だ。
それに、まだデビューもしていない学生バンドが、きちんとしたLPレコードを作っていたというのも不自然だし、LPレコードのジャケットにバンドメンバーの名前が一切書かれていない、というのもありえないと思う。
大翔はいかにも普通の大学生という感じだが、いきなり現れた無口で無骨な祖父とすぐに仲良くなると言うのも、何だかなぁ・・・という感じ。とにかく、いい子ちゃん過ぎて「ありえねぇよ,そんなこと」と文句をつけたくなる。
不自然と言えば、バンドのピアニストで健三郎の恋人、そして大翔の祖母である百合子と、ハンセン病施設で健三郎を担当する看護師ハヨンを韓国人俳優の Minji が一人二役で演じるのもなんだか不自然。ハヨン(担当看護師)がかつての恋人と生き写しだったことで健三郎が彼女に心を開いていく、という設定なのだが、韓国の看護師が日本のハンセン病施設で働く、というのもなんだか無理矢理で不自然だ。何もわざわざ、ここまでこねくり回した設定にしなくてもいいと思う。というか,なぜここで韓国人女優さん?
不自然でわざとらしいと言えば、途中で健三郎が口にする「絆」という台詞もそうだ。もちろん、2011年の大震災復興を象徴する漢字だが、ここで「いかにも」という感じで使われるのは、聞いている方が恥ずかしくなる。
そういえば、健三郎が実は心臓病を抱えていて、もう一回発作を起こしたらあの世行き、というのは最後の百合子の墓碑銘を見て健三郎が亡くなるシーンへの布石となるが、これも余りに「ありがち」な設定過ぎて、ちょっと興醒め。押しつけがましいのだ。
ちなみに最後の圧巻のジャズ演奏を聴かせるのは藤村俊二(トロンボーン)、犬塚弘(ベース)、佐川満男(ドラム)、そして財津一郎(トランペット)で、なんとジャズクラブのオーナー役として「世界のナベサダ」こと渡辺貞夫(アルトサックス)までもがセッションに参加するという、豪華な顔ぶれだが、実際に演奏しているのは渡辺貞夫と犬塚弘(クレイジーキャッツのベース)だけで、他の3人はいわゆる「口パク演奏」だ。実際、音と指がまるで合っていない部分があり、気になる人は気になるレベルである。音楽映画なのだから、ここらはもうちょっと丁寧に作り込むか、俳優たちの指の動きが映らないように工夫してほしかった。
ハンセン病の悲惨な歴史と実態を知ってほしい、ハンセン病に対する無理解に基づいた差別をこの世からなくしたい、という主張は正しいし、それを音楽映画という形を通じて世に訴えたいと考える人がいることも理解できる。だが、「音楽映画を通してハンセン病に対する差別撤廃を訴える」という選択は正しかったのだろうか。この作品では、「貴島家の絆を取り戻し」、「50年前に果たせなかった思いを果たし」、「50年間離ればなれになっていた友との再会を果たし」、「大翔と恋人が絆を取り戻し」と目的満載である。さらにその上に、ハンセン病問題と50年ぶりの演奏シーンまで重なるわけだ。要するに詰め込みすぎである。これで印象散漫にならないわけがないと思う。まさに、過ぎたるは尚及ばざるが如し、である。
と,ここまで書いてようやく,なぜこの映画の感動が薄いのかがわかった。健三郎以外のバンドメンバーの人物像がまるっきり描かれていないからだ。健三郎以外のメンバーの人生が全く見えてこないからだ。もうちょっと上手い監督だったら,あの演奏シーンに重ねあわせて,彼らの再開後の姿を重ねあわせたと思う。例えば,認知症のベーシストの老人が再開後にいかにリハビリに励んだかとか,大会社の社長にまで上り詰めたトロンボーン奏者が一生懸命に楽器の練習をするとかだ。そういう姿をセッションでソロを取るシーンに重ね合わせれば,すごく感動的になったはずだ。
この映画を見ると,《スウィング・ガールス》とか《オーケストラ!》がいかに丁寧に注意深く作られ,それが見事に感動につながっていたかが分かる。《スウィング・ガールス》ではソロを演奏するメンバーの個性や行動や考え方が十分に描かれていたから,彼らのソロを聞いて感動するし,《オーケストラ!》ではチェロ・ケースに入れてソ連から連れだされた生後6ヶ月の赤ん坊が鳴き声を上げるシーンが,チャイコフスキーのコンチェルトの勝ち誇ったようなポロネーズのリズムに見事に重ね合わされていた。そこで初めて観客はこの美しい天才ヴァイオリニストの正体を知り,彼女の作り出す音楽の奇跡に酔いしれ,感動するのだ。
というわけで,決して悪い映画ではないし,ラストのセッションはプロの演奏なのですごく上手いし,おまけに文部省だったか厚生労働省ご推薦である。そういう映画が好きな人は見ても損はないと思う。でも,感動的な音楽映画が見たいなら,この映画は選ばないほうがいい。
(2012/10/12)