もしも世の中に「モンスターパニック映画作成ガイドライン(教科書)」があるとしたら,この映画は,そのガイドラインを忠実に守った作品といえます。ありとあらゆる「アメリカ製モンスターパニック映画」の決まり事を踏襲し,定石通りに作っています。全ては予想の範囲内で進行し,予想外の展開はなく,暗記の得意な秀才の模範解答みたいな感じです。
その結果生まれた映画は,恐ろしくつまらなくなりました。映画の最初の5分を見れば,どういうラストシーンで終わるか,ほぼ完璧に読めるはずです。予定調和というか,破綻がないというか,そういう感じです。
そして,この映画の監督のコリン・ファーガソンさんには野心というものがひとかけらもないようです。人と違ったものを作りたいとか,何か一つでも観客の意表を突く映像を撮りたいとか,そういう発想が欠落している人なんでしょう。
もちろん,世の中にはこういうタイプの人間は必要ですが,少なくとも映画監督としては不適格ではないかと思います。
映画のストーリーは単純明快。
舞台はアメリカのどっかの田舎町。そこでは研究所拡大をねらう地元大学がネイティブ・インディアン(アメリカン)の先祖代々の土地を買収しようと考えていた。そして,保安官のジェイク(スティーヴン・ブランド)は大学のオーナーと,反対派のリーダーであるダコタ(ラオール・トゥルヒージョ。実はジェイクといとこ同士)の対立に巻き込まれ,頭を悩ましていた。おまけに,ジェイクは考古学者である妻(カースティ・ミッチェル)と離婚していて,彼女の夫は件(くだん)の大学のオーナーだった。
このままでは先祖伝来の土地を守れないと考えたダコタは,大学の博物館に侵入し,そこで発見した先祖伝来の古文書を見つけ,彼は「自分たちを守ってくれ」と一族の守り神(精霊)を呼び寄せる儀式を行う。
しかし,召喚された精霊はなぜか,博物館の中の「恐竜の化石」に乗り移り,恐竜の骨格標本が突如動き出し,暴れ出してしまう・・・という映画です。
恐竜の化石が動き出す映画といえば『ナイト・ミュージアム』を真っ先に思い浮かべますが,あっちの映画ではネタの一つにすぎなかったのに,本作品では「ネタの全て」となります。この時点ですでに,残念な方向に入り込んじゃったなぁ,という感じです。骨格標本のプテラノドンが飛ぶのを見たら,中学生だって「翼がないのになぜ揚力が生まれるの?」と腹を抱えて笑うはずです。特に,最後に登場する「プテラノドンの翼を持ったティラノサウルス」のお姿には苦笑するしかありません。
どっちにしてもサイファイ制作の低予算テレビ向け映画なので,人件費は削りに削りまくっていますが(例:大学誘致反対運動なんてせいぜい10人くらいしかデモ隊がいない),モンスターのCGさえ真面目に作っていればそれほどひどい作品にはならなかったはずなのに,ここでさらに予算をケチっちゃいました。だから,「実写シーンにモンスターのCGを適当に張り付けたんだよね」感一杯の残念映像のオンパレードになったわけです。
アメリカのモンスターパニック映画といえば,一にも二にも「バラバラになりかけた家族/夫婦の再生」です。それどころか,「家族の再生物語がメインで,その狂言回しとしてモンスターを登場させたんだよ。実はモンスターなんてどうでもいいんだよね」という映画が圧倒的に多いです。この映画はその典型です。
この映画の主人公の保安官は妻と離婚し,ボーイフレンドに夢中な一人娘のサバンナ(エミリア・クラーク)とギクシャクしている,という設定です。なんだか,この手のアメリカ・モンスター映画ではありきたりすぎて,見ている方が苦笑するしかありません。しかも,サバンナは高校生で,ボーイフレンドは大学に入ったばかりで,大学の入寮式で先輩が非合理的なしごきをする,という「アメリカ映画のお約束」を踏襲しまくっています。あまりにも捻りが無さすぎです。
保安官と元妻はこの事件がきっかけでよりを戻すことになりますが(この手の映画では必須の展開ですね),困ったことに元妻は大学オーナーと結婚している,という設定なんですよ。よりを戻すのはいいけど,その前に離婚の手続きが必要ではないかと思いますが・・・。
普通の映画なら,モンスターが大学オーナーを殺し,主人公と元妻の復縁の障害がなくなった・・・という手を使うんですが,この映画ではそういう配慮は全くありません。法律的に大丈夫なんだろうかと,観客の方が不安になってきます。やはり,大学のオーナーは早い時点で殺した方がよかったと思います。
あと無理を承知で言えば,サバンナ役の俳優さんをワンランク上の若手女優にした方がよかったと思います。
というわけで,もう書くことがなくなっちゃいました。
(2013/08/02)