《ブリューゲルの動く絵 "The mill and the cross"★★★★( 2011年,ポーランド/スウェーデン)


 これまでかなりの数の画家を主人公とした映画を見てきた。 『真珠の耳飾りの少女』(2003年)《ニキフォル 知られざる天才画家の肖像》(2004年)『宮廷画家ゴヤは見た』(2006年)《クリムト》(2006年)『レンブラントの夜警』(2007年)『カラヴァッジョ 天才画家の光と影』(2007年)《セラフィーヌの庭》(2008年)などだ。芸術家が芸術作品を生み出していく様子を見るのが好きだからだ。
 この映画もそういう一つかと思ってみたが,かなり異色というか,不思議な雰囲気が漂う映画だった。一つの作品のみを取り上げ,その成立の背景と絵画表現を深く掘り下げていくが,画家のブリューゲル自身は登場するものの主人公ではなく,主人公はあくまでも絵画だからだ。これは絵画芸術を取り上げた映画としては,極めて異色の作品だ。

 同時に,この映画は見る人を選び,決して万人向けの映画ではない。この映画を理解するには,16世紀のオランダの政治・宗教情勢についてのそれ相応の知識が必要となるが,映画の中ではそれらについての説明が一切なく,「この映画を見ている人は当然,歴史的背景はご存知ですよね」というスタンスで作っているからだ。


 この映画のもとになっている絵画はピーテル・ブリューゲルの大作「十字架を担うキリスト」だが,この絵画について美術評論家のマイケル・フレンシス・ギブソンが分析し,その研究結果を『The Mill and the Cross』という論文にまとめたそうだ(映画の原題はこの論文から取られている)。フリューゲルのこの絵画は総勢100人を超える人物がびっしりと書き込まれた精緻な大作だ。その絵の中心には十字架を背負わされたキリストが小さく描かれ,左上には巨大な岩山とその上の巨大な風車を備えた粉引き所がある。ギブソンはこの謎めいた絵を「粉引き所と十字架」を軸に研究し,そこに込められた様々な寓意とドラマを明らかにした。絵の中心に配置されたキリストは非常に小さくて目立たないのはなぜか,なぜこれほどまでに巨大な岩山の頂上に粉引き所があるのか,なぜ右下には聖母マリアが描かれているのか,そのそばにいるのは誰なのか・・・などの謎である。そして,映画監督であり優れた映像芸術家であるレフ・マイェフスキにその論文を送り,この論文を映像化して欲しいと依頼したらしい。その結果,完成したのがこの映画というわけだ。

 つまり,フリューゲルとは誰であり,どんな作品を描き,その代表作は何で,当時の社会の情勢はどうだったかをすでに知り尽くした人が読むことを前提にして書かれた論文をベースとし,その論文を映像化したわけである。だから,この映画はどこか教育映画風であり,フリューゲル研究者の学会発表風であり,最初から「素人はお呼びでない」のはある意味仕方ないことだろう。専門家だけが読むことを全体に描かれるのが論文だから当然である。


 ちなみに,元になったフリューゲルの絵画はこれ,絵画の解説はこのサイトがわかりやすいと思う。


 フリューゲル(ルトガー・ハウアー)の「十字架を担うキリスト」はパトロンであるヨンゲリングからの依頼で制作されたもので,その意図はズバリ,ネーデルラントの嘆かわしい現状を憂い,それを告発する絵を描いてほしい,というものだった。ブリューゲル(1525〜1569)が活躍した16世紀は,1517年に始まるルターによる宗教改革のまっただ中であり,プロテスタントとカトリックの抗争が続いた時代である。当時のネーデルラントの住民の多くはプロテスタントに改宗していたが,この地を統治するスペイン・ハプスブルク家はカトリックの熱心な養護者であり,とりわけカール5世はガチガチのカトリック教徒だった。プロテスタントを目の敵にするカール5世はプロテスタント教徒を弾圧し,見せしめのために残虐な処刑を繰り返していた。

 だが,ネーデルラントの主要都市アントワープは貿易により栄えてきた。商業と貿易はいわばネーデルラントの生命線だ。その貿易都市にとって,勤勉をモットーとするプロテスタントは,カトリックよりふさわしいものだった。だから,フリューゲルのパトロンであり銀行家でもあるニクラース・ヨンゲリングは,そういう社会を告発するためにフリューゲルに絵の制作を依頼したのだろう。

 そして,捕縛され,十字架を背負わされたキリストを中心に配置し,それから蜘蛛の巣のように(なぜ蜘蛛の巣かは映画を見ればわかります)100人を超す人間を配置し,町の象徴としての粉引き所と城壁を片方の端に描き,右上に処刑場を描いた。右下にはキリストの死に悲嘆にくれる聖母マリアが描かれている。

 1600年前にキリストを捕縛して十字架につけたのはローマ兵だったが,このフリューゲルの絵では赤いマントのスペイン・ハプスブルク家の兵士だ。この兵士たちがプロテスタント信者にどれほど残虐な行為をしていたかはこの映画を見ればわかるが,その暴力の凄惨さに,おそらく言葉を失うと思う。宗教の名のもとに,神の名のもとに,人間の悪魔性はもっとも効果的に発揮されるものらしい。


 また,16世紀のフランドル地方の人々の生活が実に見事に,そして正確に再現されていることも特筆モノだ。当時の衣服が重ね着(重ね着は3万年前の人類の革命的大発明であり,このおかげで人類は最終氷期を物ともせずに生息域を広げたのだ)を基本にしていたことがよくわかるし,当時の庶民の日常的な食事がどのようなものだったのかもよくわかる。特に食事についてはパンしか食べるものがないと言ってもいい感じだ。そして,食事の前にそのパンに祈りを捧げてから母親が切り分ける様子なども興味深い。


 いずれにしても,ブリューゲルの絵画を実際の人間で再現するという前代未聞の試みは素晴らしいし,実車とCGで再現される絵画の舞台となっているネーデルランドの風景は息を呑む美しさだ。よくぞここまで酷似したた風景を見つけたものだと感嘆する。

 絵画好きなら一度見ても損はない佳作である。

(2013/10/25)

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