『「無限」に魅入られた天才数学者たち The Mistery of the Aleph
(アミール・D・アクゼル,早川書房)


 最初に断っておくが,以下の文章は本の紹介というよりは,内容の詳細な要約である。ちょっと書き過ぎじゃないの,と思われる方もいらっしゃると思うが,これはあくまでも「何が書いてあったか」を私が思い出すためのメモであり,本を捨てるための要約(この文章を読むと本書を読み返す必要がなくなり,本は捨てても大丈夫)なので,そこらはご理解のほどを。


 数学の根底に横たわりながら,多数の数学者が正面から取り上げることを忌避してきた問題,それが「無限」だった。そこには底知れぬ深淵が横たわり,恐ろしい虚無が待ち構えているからだ。しかし,1845年にドイツに生まれた天才数学者,ゲオルク・カントールは果敢にその巨大な謎に取り組むことを決意する。彼は集合論を武器にその謎に迫りその真相に肉薄したかに見えたが,天に到達しようとして作られたバベルの塔が神の怒りに触れたかの如く,彼は次第に精神を病み,精神病院で衰弱死するという非業の死を遂げる。

 カントールが最後の入院のために病院を訪れたのと同じ頃,もう一人の天才,クルト・ゲーデルが世に生を受ける。彼は数学の公理系の本質に迫る不完全性定理を証明し,返す刀でカントールが解決できなかった連続体仮説に挑戦する。そして彼も次第に精神を病み,自ら餓死する道を選ぶ。

 そして20世紀半ば,ついに連続体仮説に関する問題点が明らかにされた。しかしそれでもなお,連続体仮説はいまだに謎のままなのだ。

 そんな天才数学者たちの生涯を丹念に追い,同時に集合論の誕生,無限集合の持つ謎の性質を判りやすく説明したのが本書であり,まさに波乱万丈の冒険小説のような面白さである。
 ちなみに本書の著者は,以前紹介した名著『天才数学者たちが挑んだ最大の難問 −フェルマーの最終定理が解けるまで−』(早川書房)の著者でもある。


 無限といえば私たちにとって最も理解しやすいのは自然数だ。1を加えればいくらでも大きな数が得られ,自然数に限りがないことは誰でも知っている。だが,ちょっと深く考えていくと,そこには不思議な現象が待ち構えている。例えば,「自然数(1,2,3,4・・・)と二乗数(12,22,32,42・・・)ではどちらが多いのか」を考えると何だかよくわからなくなってくる。それを真剣に考えたのはガリレオであり,その後,ボルツァーノは加算無限集合(例:自然数の集合)とその部分集合(例:二乗数の集合)には一対一対応があり,部分集合と全体集合が「同じだけの数を含む」ことを証明した。だが,ガリレオもボルツァーノもそれ以上「無限」に踏み込むことはできなかった。

 実は,無限を取り上げると回避不能なパラドックスが生じることは,ギリシャの昔から知られていて,それは「ゼノンのパラドックス」として有名だ。いわゆる「走るアキレスは亀に追いつけない」とか「飛ぶ矢は進めない」というパラドックスである。
 「無限」というものを人間が意識した時,そこには必ずパラドックスが待ち構えていて,近づくものを飲み込もうとしているかのようだ。だから,微分にしても積分にしても,無限小という概念を持ち込んで近似するという隘路を進み,「無限」そのものを直接扱うことを巧妙に回避したのだろう。


 そんな中で,19世紀半ばに生まれたゲオルク・カントールは自ら「集合論」という数学の理論体系を作り上げ,それを武器に果敢にも真正面から無限(実無限)に挑み,次々と不可思議な現象をあばき出しては証明し,実無限の謎に迫っていく。

 彼はまず対角線論法を使い,自然数と全ての有理数(わかりやすく言えば分数で表される数である)が同じ数だけ存在していることを証明し,全ての有理数を順序良く並べられることを示した。こうして彼は,有理数と整数は数の密度として「同じ階層」に属していることを見出した。

 そしてさらに,これが無理数にも拡大でき,「代数的数(=有理数を係数とする多項式の根となっているもの,例えば,「2の平方根」とか「11の立方根」などがそれ)」の集合と,有理数や自然数の集合と同じサイズを持つことまで証明した。
 ちなみに,代数的数でない無理数を「超越数」と呼び,円周率のπや自然対数の底 e は超越数である。

 このようにしてカントールは,点集合を考えることで無限の概念に到達し,無限の性質を次々と明らかにしていった。そして,全実数からなる集合の大きさは,全整数+全有理数からなる集合の大きさより大きなことを証明し,無限の濃度は一つでなく,階層があることも明らかにしていった。
 そして彼は,全有理数の集合を「連続体」と名づけ,なんと,「連続空間なら1次元の直線でも2次元の平面でもn次元空間でも,連続体と同じだけの点を有する」という驚くべき事実に到達し,それを証明する。カントールは「私はこれを証明したが,私にはそれが信じられない」と知人の手紙に書き記したが,まさに「無限」の本質を示す言葉だろう。


 しかし,無限集合を研究するカントールの前に,一人の数学者が立ちはだかる。彼のかつての指導教官であるクロネッカーである。彼は代数学の分野で彼は幾つもの優れた業績を今日に残している優れた数学者だが,一方で彼は「整数が唯一自然な数であり,それ以外の数は不自然なものだ」と考えていた。要するに,無理数などというものを研究対象にして,それを学生に教えるカントールは許してならない悪魔のような存在だったのだ。

 計らずも二人の論争は,代数学と解析学の代理戦争の様相を呈してしまった。代数学は基本的に離散的なものを対象にしているのに対し,解析学は連続的なものを対象にしている。つまり,考え方の基本が相容れないらしい。当時はまさに,両者が激突した時代だった。カントールは否応なく,その戦争に巻き込まれてしまう。

 信仰深いカントールは「無限」とは神から与えられたものと信じていた。彼にとって「無限」とは神である。無限にさまざまな階層が存在し,その最上位に人間が決して到達できない高みがあり,そこに絶対者としての神が存在する。つまり,カントールにとって無限の研究は,神への信仰なのである。だから,論争に負けるわけにはいかない。

 かくして,カントールとクロネッカーの対立は激化の一途をたどり,両者の論戦は次第に個人攻撃の様相を呈してくることになる。

 ちなみに,本書ではクロネッカーは悪役扱いであるが,これはカントールを主役に据えたための当然の帰結である。もしもクロネッカーの伝記なら,カントールは悪役扱いだろう。
 このあたりのことは,アーベルやガロアの伝記における,コーシーの扱いに似ているような気がする。コーシーが彼らの論文をしっかり読んでいたら,ガロアが20歳で死ぬこともなかったろうし,アーベルが24歳で餓死することもなかっただろうから,悪役扱いされてもしょうがないと思う。ましてや,ガロアもアーベルも夭折したのに,コーシーは結構長生きしたのだから,悪役の条件としては揃いすぎているわけだ。
 しかし,それとコーシーの数学的業績は別である。ま,そんなものであろう。


 集合には「基数」という重要な概念がある。有限集合での基数は,その集合に含まれる要素の数である。では,無限集合での基数はどう考えたらいいのだろうか。
 そこでカントールは,加算無限集合(自然数や有理数の集合のこと)の基数を「超限基数」と名づけ,それにヘブライ語のアルファベットの最初の文字,アレフを使い「アレフ・ゼロ」と命名した。そして,加算無限集合より高い階層にある無限に対するアレフの系列が存在すると考え,それらをアレフ1,アレフ2・・・とした。

 カントールは直感的に,アレフ・ゼロより一段階高次のアレフが超越数の集合だと考えた。これが「連続体仮説」であり,次の式で表される。
    
 しかし,この連続体仮説の研究がカントールを狂気に追い込むこととなる。

 1884年,カントールはついに連続体仮説を証明するが,なんとその2ヵ月後,自分の証明が間違っていることを発見してしまう。それでも彼は,別のアプローチから証明に成功するのだが,その検証を進めるうちに,再度,自分の証明が間違っていることを証明してしまう。
 仮説の証明⇒その証明の間違いを発見⇒新たな証明に成功⇒新たな証明にも間違いが・・・,が何度も繰り返されたため,彼は数学者として窮地に立たされる。そして,クロネッカーの執拗な個人攻撃が浴びせられ続ける。そして,カントールの最初の精神病の発作が起きてしまい,彼は病院に収容される。

 実はカントールの論理に欠陥はなかったのだ。後述するように,われわれの数学体系では連続体仮説は証明できないのである。つまり,連続体仮説は真であり偽なのだ。しかし,それがわかったのが,カントールの死後しばらくたってからだった。

 カントールは「すべてを含む集合はありえない」という事実に到達する。つまり,どんな集合に対してもそれより大きな集合が必ず存在することを意味している。従って,最大の基数も存在しない。
 そしてカントールは生涯最後の十年以上を過ごした精神病院で息を引き取る。


 だが,まだカントールが世にあった1900年,ヒルベルトはパリにおける国際数学者会議で有名な「ヒルベルトの23の問題」を発表し,その第1問題として「連続体仮説」を取り上げた。それ以後,連続体仮説は20世紀の数学者が取り組むべき問題となり,問題点が次第に明らかになっていった。

 連続体仮説を扱うには「選択公理」が必要であることが明らかになった。しかし,その選択公理自体の問題点,つまり,無限回の選択を行うのはいいとして,その具体的方法が不明,という点が指摘されたのだ。何しろ,集合理論の基礎をなすのが選択公理であるだけに,問題は深刻だった。
 そして,連続体仮説の証明に不可欠な「整列原理」にも疑問が投げかけられるようになる。連続体について解析する場合,数直線状の数の順序の問題は避けて通れないが,まさにそこに問題があったのだ。
 そしてついに,整列原理と選択公理は等価であることが証明される。このままでは,集合論の根本自体が揺らいでしまう。


 ここに,もう一人の天才数学者が登場する。クルト・ゲーデルだ。彼は次のように自問した。

 まさに,数学の根本に対する問いかけだった。

 そして彼は「任意の系が与えられた時,その系の内部では証明できない命題が常に存在する」ことを証明する。いわゆる「ゲーデルの不完全性定理」である。要するに,与えられた系の内部では全体像が捕らえられず,本質もわからないものが存在し,それを理解するためには,より高いレベルに移り,そこから俯瞰するしかないのだ。

 要するに,数論だろうと代数学だろうと解析学だろうと,それがいかに論理的に構築されていたとしても,その体系は完全には程遠く,その体系内部には真偽を判断できない解決不能の命題がかならず存在するのだ。それをゲーデルは証明してしまった。

 そんなゲーデルも,誘蛾燈に蛾が引き寄せられるかのごとく,連続体仮説に魅せられ,その証明に没頭する。だがそれは,無限が仕掛けた罠だった。彼はカントール同様,精神のバランスを崩していき,うつ状態から被害妄想がひどくなり,ついには食事が取れなくなって自ら餓死の道を選ぶ。その経過は恐ろしいほどカントールの経過に酷似していた。「無限」という神は自らに近づこうとするものを許しはしなかった。


 連続体仮説に最終的な決着をつけたのはコーエンだった。彼は,集合論の公理系(ツェルメロ=フレンケル公理系 + 選択公理)と連続体仮説が完全に独立であることを証明したのだ。つまり,現在の公理系(ツェルメロ=フレンケル公理系 + 選択公理)の内部では,連続体仮説が真であれ偽であれ,それを証明することも反証することもできないのである。しかも彼は,選択公理はツェルメロ=フレンケル公理系から独立であることも示している。
 要するに,現在用いられている公理系のもとでは,連続体仮説を真とみなしても偽とみなしても矛盾は生じないのである。

 従って,連続体仮説が真である,あるいは偽である(=アレフ・ゼロと連続体濃度との間に別のアレフが存在する)ことを証明するためには,まったく別の公理系が必要となるのだが,現時点で最善とされる公理系(=ツェルメロ=フレンケル公理系)に替わる公理系が見出せるのかという問題が生じてくるし,新たな公理系を作ったとしてもそこに矛盾やパラドックスが含まれないとは限らないのである。


 以前,かなり難解な数学についての本,『メタマス!―オメガをめぐる数学の冒険』を紹介したが,恐らく,本書を読んでからこちらを読むべきだろう。本書で無限にまつわる諸問題を(ある程度)理解してから『メタマス!』を読むと,「一体これは何のことを書いているのだろうか?」という部分が非常に少なくなるはずだ。


 本書の原題は『The Mistery of the Aleph』,つまり『アレフの秘密』である。しかし,現在の日本で「アレフ」といえば,例の新興宗教「アーレフ」であり,原題通りのタイトルにしたら,新興宗教教団の本と間違われる危険性が高いのだ。それを回避するためにこの『「無限」に魅入られた天才数学者たち』という邦題にしたものと思われるが,実に適切だと思う。


 『メタマス!―オメガをめぐる数学の冒険』の感想にも書いたが,ゲーデルの「ある系の中では,それが正しいかどうかを判断することはできない。判断するためには一段高次の系に移る必要がある」というのは医学でも成立していると思う。医学の問題を医学だけで判断することはできないと私は思っている。医学の問題を判定するなら,医学より一段高い系,つまり,生物学,化学,物理学の系から医学を見下ろすべきだし,それ以外に手段はないはずだ。

 そういう本質的な議論をしない連中が,「RCTで証明されたから正しい」とか「過去の論文で照明されているからエビデンスがある」などというタワゴトを言っている訳だ。そういう連中に限って,「だって,医学は科学ではないし・・・」なんて低次元の言い訳をしているのである。
 実に嘆かわしいものだし,他の科学の分野の研究者にはこういう医学の実態を知られたくないなぁ,と思っている。「エビデンスと他人の書いた論文が同じなんて,医者って馬鹿じゃん!」ってばれちゃうからね。


 さて,このように何となくまとめてみたが,専門の方(?)から,一部に間違っている部分がある,というご指摘をいただきました。本来ならご指摘に従って上記の内容を修正しなければいけないのですが,時間が取れそうにないため,その方からの許可を得て転載させていただきます。
 黒い文字の部分は私の文章,緑の太字の部分がその方からのメールの内容です。


そんな中で,19世紀半ばに生まれたゲオルク・カントールは 自ら「集合論」という数学の理論体系を作り上げ,それを武器 に果敢にも真正面から無限(実無限)に挑み,次々と不可思議 な現象をあばき出しては証明し,実無限の謎に迫っていく。
 彼はまず対角線論法を使い,自然数と全ての有理数(わかり やすく言えば分数で表される数である)が同じ数だけ存在して いることを証明し,全ての有理数を順序良く並べられることを 示した。こうして彼は,有理数と整数は数の密度として「同じ 階層」に属していることを見出した。
 そしてさらに,これが無理数にも拡大でき,「代数的数(= 有理数を係数とする多項式の根となっているもの,例えば,「2 の平方根」とか「11の立方根」などがそれ)」の集合と,有理 数や自然数の集合と同じサイズを持つことまで証明した。

予備知識なしで読むと無理数が自然数の数(可算個)と同じ濃 度(階層)であるように読めてしまいます。

厳密には、
  • 可算個(可算濃度)=(実数の一部である)自然数の個数、整数の個数、有理数の個数。(複素数の一部である)代数的数の個数
  • 連続体の個数(連続対濃度)=実数全体の個数。(実数の一部である)無理数の個数。(複素数の一部である)超越数の個数。複素数全体の個数
となります。

例えば「無理数にも拡大でき」という記述は、読者が早とちり であったり、予備知識がないと「無理数も可算個」というよう に読めてしまいますので、「無理数の一部にも拡大でき」ある いはこの文では無理数には触れないのほうが、誤解の少ない記 述かと思いました。



ちなみに,代数的数でない無理数を「超越数」と呼び,円周 率のπや自然対数の底 e は超越数である。

「代数的数ではない無理数を超越数」という説明ですが、代数 的数は複素数の分類であり「代数的数ではない複素数を超越数 」の方が誤解の少ない表現です。代数的数ではない無理数は、 厳密には「超越数の実数部分」となります。

実数の分類である、有理数・無理数。複素数の分類である、代 数的数・超越数が混在して書かれているので、誤解を招く可能 性についてご配慮お願いいたします。



このようにしてカントールは,点集合を考えることで無限の 概念に到達し,無限の性質を次々と明らかにしていった。そし て,全実数からなる集合の大きさは,全整数+全有理数からな る集合の大きさより大きなことを証明し,無限の濃度は一つで なく,階層があることも明らかにしていった。
そして彼は,全有理数の集合を「連続体」と名づけ,なんと ,「連続空間なら1次元の直線でも2次元の平面でもn次元空間 でも,連続体と同じだけの点を有する」という驚くべき事実に 到達し,それを証明する。カントールは「私はこれを証明した が,私にはそれが信じられない」と知人の手紙に書き記したが ,まさに「無限」の本質を示す言葉だろう。

連続体は、数直線の隙間のない集合である「全ての実数」の集 合です。「全有理数の集合」は「可算個」と呼ばれる濃度です 。微妙な違いですが、ご配慮お願いいたします。

(2008/05/27)

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