以下も,この本と関係ない私の雑感である。
たとえば,料理の名人がいて,彼の弟子たちの間で「俺の方が師匠が認める料理だ」と論争が起きたとする。この場合,名人が生きていれば問題は簡単。料理を食べてもらって名人に判定してもらえばいい。
問題は,名人がすでに故人の場合だ。名人が書き残したレシピに忠実であればいいのか,名人がことあるごとに弟子たちに伝えた言葉に忠実であればいいのか・・・と,複数の判定基準ができてしまうからだ。
ある弟子は師匠から言われた「レシピは全ての基本だ,忠実に守れ」との言葉が大事だと考えるだろうし,別の弟子は師匠から言われた「レシピは大事だが状況に合わせて味付けを考えることも大切だ」という言葉の方が重要だと考えるかもしれない。このように、師匠から直接指導してもらった弟子たちでも基準はまちまちだ。
さらに時間がたつとどうなるだろう。残っているのは名人が直接残した(とされる)レシピと、その愛弟子たちが書き記した「私はこのように料理を教えてもらった」というレシピ、そして、弟子たちがまとめた「名人の言行録」だけしかない。
しかしその頃になると、レシピに書かれたいた食材が入手できなくなったり,料理名人が生きていた時代にはなかった食材が普通に使われるようになっている。また、名人が知らない海外の料理も入ってくるようになる。
しかし、そういう時代になっても、「名人のレシピ」には新しい料理が追加されることもなければ、新しい料理素材が追加されることも、新しい調理法が加わることもない。名人のレシピに何かを加えたり削ったりしたら、もうそれは「名人のレシピ」ではなくなるからだ。要するに、規範である名人のレシピは一字一句変えてはいけないのだ。
もうここでおわかりと思うが、この「レシピ」が宗教の教義における「聖典」である。キリストの言葉にしろ、マホメッドの言葉にしろ、釈迦の言葉にしろ、孔子の言葉にしろ、それを変えることは許されないのだ。一字でも変えてしまったら、それはキリストや釈迦を冒涜することになるからだ。そして同時に、一字も変えずに次の世に伝えることが聖職者の仕事であり義務なのだ。
というわけで、大昔に成立した聖典をめぐって、俺たちの方が正しい解釈をしている、いや、俺たちの解釈の方が正しい、という本家争いが生じたとき、それは聖典に書かれている字句を巡る解釈の争いになる。
これは前述のレシピで考えるとよくわかる。大昔の料理名人の残したレシピを巡って、どっちの料理法が正しいのかという論争である。だから、たとえばレシピに「塩」という言葉があったら、その塩は岩塩が正しい、いや、入り浜方式の自然塩が正しいはずだ、いや、釜で煮て作った塩の方が正しい、という議論になり、岩塩派と入り浜塩田派で大激論になり、お互いに意見を融通しあうことはできないから、やがて血で血を洗う抗争に発展したりする。
同様に、銅鍋か土鍋かで宗派が分かれるし、砂糖の種類、醤油の種類についても大激論となる。
もちろん、これらの宗派対立は、そもそも名人の料理が知られていない国の人間から見たら、滑稽極まりないものにしか見えない。そんな議論はどうでもいいから、うまい料理を作れよ、と言いたくなるが、そんな批判は通用しない。批判した人間の暮らす国(地域)にも、独自の「大昔の名人のレシピ」があり、「この国の料理とは、大昔の名人のレシピに従って作るもの」という定義を最初に作ってしまったからだ。これが一神教の世界である。
要するに、「過去のレシピ(聖典)の解釈学」=「料理(宗教)そのもの」になり、解釈する聖典の情報が限定されている以上、単語のわずかな解釈の違いに独自性を託すしかないのである。しかも「料理で正しいのはこの名人の料理だけ」という一神教の世界だから、わずかな違いでも妥協できないのだ。
かくして、「同一宗教内の宗派間のストイック競争」を加速させ、端から見れば「我慢大会」の様相を呈してくるのだろう。
(2009/12/30)