古生物マニアの間ではカンブリア紀は非常に人気が高い。あのスティーヴン・グールドが『ワンダフル・ライフ』で,「カンブリア紀の怪物たち,爆発的進化と多様化」という言葉で説明し,その後に出現したどの動物とも違う異様なな姿をしている生物たちの姿は余りに魅力的だった。この本は1989年に出版されてすぐに日本語訳も刊行され,私もかなり早い時期に手にとってむさぼるように読んだことを覚えている。そして確かその数年後,このグールドの本を元にした番組がHNKで放映されたが,当時の最新のコンピュータグラフィックで再現された「泳ぐアノマロカリス」の様子は圧倒的な迫力だった(この映像はもう一度見てみたいとずっと思っている)。古生物と動物進化について興味を持つ人たちの間で,アノマロカリスはカンブリア紀の大スターとして知られ,それが眠るバージェス頁岩はなんともロマンを感じさせ心を躍らせる言葉となった。
そして近年,中国の澄江(チェンジャン)からカンブリア紀の化石が大量に発見されるのだが,そこにはカナダのバージェス頁岩の動物群に含まれていない多くの種類の動物化石が見つかったのだ。本書はこれらの新たに発見されたカンブリア紀の生物について紹介し,それが果たしてグールドの言うように「爆発的進化」だったのかと検証している。
以前は,カンブリア紀の生物がリン酸塩を含む固い殻を持っていたことから,補食者が出現し,それから身を守る硬い組織を進化させた動物が出現し,狩るものと狩られるものの間で軍拡競争となり,爆発的進化の原動力になった,と説明されていたようだ。それに対し本書では,進化はすでにその前のエデュアカラ紀から起きていたが,そのころにはリン酸塩の殻がなかったために化石として残らなかっただけ,という説を紹介している。
地球に最初の原核生物(細菌と古細菌)が誕生したのは30数億年前,最初の多細胞生物の化石として確認される生物が出現するのは8〜10億年前である。その後地球は2度の数千万年続く長大な氷河期を経験する。スターシアン氷河期(7億2000万年前まで)とマリノアン氷河期(6億3000万年前まで)であり,この時期,地球は「Total Snow Ball」,すなわち地球全体が氷で覆われてしまうという出来事を何度か経験したと考えられている。この時期,原核生物(細菌と古細菌)は生き延びられたが,ほとんどの多細胞生物は絶滅し,わずかな生き残りが凍結を逃れた温暖な海で生き延びていたらしい。そしてマリノアン氷河期が終了してエデュアカラ紀に入って再び多細胞生物は息を吹き返し,そして5億4000万年前にカンブリア紀に突入する。
本書はこのような生命進化の歴史を手際よく紹介し,澄江(チェンジャン)化石群から明らかになったカンブリア紀の生物群の分類と進化の過程,現在の節足動物とどのような関係にあるのかを分かりやすく説明している。そういう意味では,この時期の生物群について網羅的な知識を得るにはいい本だと思う。そして何より,各生物のイラスト画に直接説明が書かれているのは非常に親切である。こういう本では通常,本文中に説明が書かれているだけで,それがどこの部分を指しているのかわかりにくいことがしばしばあるからだ。
と,ここまではいいのだが,問題点もまた多い本なのである。
まず,各生物の名前が日本語(カタカナ)表記だけで英語名が併記されていない,という専門書では絶対にあり得ない初歩的ミスを犯している。例えばミラノレシャニアという生物名があるだけでは,その説明文を他書と比較しようとすると,どこかでミラノレシャニアの英語表記を見つけてこなければいけないし,見つけたとしてもその英語がミラノレシャニアと同じものなのかわからないからだ。
本書の著者は実は生物学者でもなければ,古生物や化石の研究者でもない。本職は物理学であって,コンピュータの中で生物の動きを再現し,動きや形の進化を探ろうとする仕事をしていらっしゃるらしい。そのため,古生物の英語名を併記する必要性も感じなかったのかもしれない。それならそれでしょうがないと思うし,このミスは筆者の責任ではなく編集者の問題だと思う。さらに言えば,本来,生物学系の専門出版社でない技術評論社が発行していることが原因なのかもしれない。
ちなみに,技術評論社は15年ほど前まで「The BASIC」というきわめて良質のコンピュータ雑誌を出版していて,私はその愛読者だった。まさかここでこの会社名を眼にするとは思っても見なかった。
また,著者が生物学者でないという事実に気がついて本書を読み返してみると,例えば二つの学説がある問題について筆者の判断が一切書かれていないことも理解できる。研究者であれば「自分はこちらの説を支持していて,その根拠は・・・」という書き方をするはずだが,それがないのである。本書を最初に通読したときに,どこか淡泊な印象を持ったが,理由はこういうところにあったのだろう。
そういえば,本書のサブタイトル「チェンジャンモンスターが残した進化の足跡」というのもおかしい。チェンジャンというカタカナ表記をみても,それが「澄江」に結びつかないし,ましてや「チェンジャンモンスター」である。「カンブリア紀のモンスター」なら興味を持っている人なら誰でも知っているし,「澄江化石生物群」も知っている人なら知っている。しかし,「チェンジャンモンスター」は専門用語でも一般用語でもないと思う。その意味でこのサブタイトルはないだろうと思う。これも編集者の責任だ。もしもサブタイトルを付けるなら「澄江化石生物群が明らかにしたカンブリア・モンスターの真実」なんてのがよかったと思う。
さらに言えば,最後の第8章の「コンピュータの中のアノマロカリス」の部分は本来なら筆者が一番書きたかった章だと思うのだが,わずか11ページにすぎず(文字数だけなら原稿用紙15枚もないと思う),コンピュータ処理の方法についての説明は短く,コンピュータでアノマロカリスの動きを蘇らせる面白さや工夫もほとんど書かれていない。もちろん,文章と絵だけでそれを伝えるのは難しいと思うが,本書の著者はこれで満足していたのだろうか。
というわけで,カンブリア紀の生物に興味を持っていて,これまでに知られた知見を網羅的に知りたいという人は読んで損はない本だと思う。
(2009/01/14)