『ガリレオの指 現代科学を動かす10大理論』(ピーター・アトキンス,早川書房)


 本文だけでも440ページを超える厚さ5センチの大著である。そして内容はその外見以上に濃密で,量子力学や相対性理論,生物学や熱力学についてある程度の予備知識がないと内容を完全に理解するのは難しく,かなりハードである。しかし,これがもう面白いのだ。なぜならこれは最良の「知の冒険小説」だからだ。読み終えた時はおそらく,人類がこれまで到達した知の高みに思わず息をのみ,知の殿堂のきらびやかさに目が眩む思いがするはずだ。物事を考えるということはこういうことかと感動するはずだ。


 本書のテーマは何か。それは,応用ではなく基本なものの考え方,すなわち深遠なアイデアだ。それを本書では「実りをもたらすもの」でなく「光明をもたらすもの」と表現している。それまで混沌とし,本質がよくわからなかった物事について,一挙に暗雲を払って本質を明らかにし,さらに未来への道を指し示すようなアイデア群,それが本書の中心テーマなのだ。

 本書は10章からなり,進化論,遺伝子の発見,エネルギー保存則(熱力学第一法則),エントロピー増大則(熱力学第二法則),対象性,量子力学,相対性理論,そして最後に数理哲学を取り上げている。いずれも,それまで常識とされた考えを一挙に吹き飛ばし,新時代の常識となったものばかりであり,同時に,人間のものの考え方を根本から変えた学説である。

 本書の内容は前述のようにかなりハードだが,説明自体は非常に分かりやすい。適切な比喩が随所に使われていることもあるが,それ以上に,それに関する古い時代の考えから順序よく説明し,どのような変遷を経てその革命的アイデアが提案されたのかという過程が手際よく提示されているところが素晴らしいのだ。例えば,進化論の説明の部分では,古代ギリシャの生物観,アマゾン川流域の先住民の生物観,キリスト教の生物観から説きおこし,リンネの分類を経てダーウィンの考えを詳しく解説する。しかも,ダーウィン自身の考えの変遷も時系列に丁寧に説明されるため,進化論に到達した論理の流れが一目瞭然なのだ。

 これは他の項目についても同様であり,いかにしてエネルギーという概念が生まれたのか,原子が見つかるまでの過程はどうだったのか,量子力学で人間の自然に対する認識はどう変わったのか,アインシュタインはなぜ相対性理論を考えついたのかを極めて明快に,そして判りやすく説明する。
 そしてそれ以上に面白いのが,それまでの古い誤った考えはいかにして生まれたのか,なぜそのような誤った考えが皆に支持されたのかを明らかにするのだ。このような「間違っていた常識」について知ることは大きな意味を持つ。人間が陥りやすい論理の罠と犯しやすい間違いをもっとも如実に教えてくれるからだ。そして,間違っていた考えを深く知ることにより,正しい考えを知るだけでは得られないものが見えてくるものだ。誤りもまた人間の営みであり,壮大で強固な間違いほど,ある意味,人間の思考の本質を突いているのだ。


 個人的に収穫だったのは,第8章の「宇宙論」でビッグバンについてこれまで考えていたことがまるっきり違っていたことに気がついたことだ。私はこの本を読むまで,ビッグバンという言葉から,小さな球が爆発して拡大していくイメージを持っていた。だからこれまで,「最も遠い銀河の世界記録を更新」−宇宙史の暗黒時代をとらえ始めたすばる望遠鏡などのようなニュースで,「距離にして約128億8千万光年,ビッグバンから約7億8千万年後に誕生した銀河であることが確認された」という記述を読むたびに,なぜ最も古い銀河は最も遠くにあるのかが理解できなかったからだ。「爆発的に広がる球体の内部で均等に銀河が形成されたはずなのに,なぜ,宇宙の外郭(辺縁)でしか古い銀河が見つからないのだろうか?」と不思議に思っていたのだ。

 どうやらこれは,ビッグバン自体に対する私の認識が間違っていたためらしい。ビッグバンとは宇宙のどこかTカ所で起こったものではなく,無限の体積を持つ空間の至る所で起きたというのが正しい理解なのだという。「バン(爆発)」という呼び名から,勝手に「爆発したんだろう」と思い込んでいただけのようだ。いずれにしても,これで長年の疑問が氷解した。これだけでも本書を読んでよかったと思った。

 また,最終章の数理哲学,超数学の部分で,「ゲーデルの不完全性定理」がわかりやすく説明されていたり,チューリング提起した問題が見事に明快に解説されていたのもよかった。このあたりの問題に関する本は何冊か読んだが,私にとっては本書の説明が一番理解しやすかった。


 このような本だが,科学に興味のある高校生,科学を専攻する大学生はお金に余裕があったら絶対に読んだ方がいいと思う。科学のさまざまな分野の知の高み,そしてそこに到達するための先人たちの研ぎ澄ませた論理の素晴らしさ,先人たちの飽くなき探究心には心躍らされるはずだ。そして改めて,科学を学び真実を探求することの素晴らしさがわかると思う。

 また,多くの医師にも是非読んで欲しいと思う。医学以外の分野での,人間の叡智の到達点の高さを知って欲しいからだ。長く医学ばかりしていて,医学しか知らなくなると,狭い「医学村」でしか通用しない論理で満足する「医の中の蛙」になってしまう。自分が「医の中の蛙」かもしれないと気がつくのは,医学以外の科学に触れた時だけなのだ。
 そして,広い分野の科学知識を持つことは医学にも役立つと思う。「医学村」で解決できない医学の問題は往々にして,ちょっと見方を変えると簡単に解決することがあるからだ。ドラえもんのポケットと同じで,ポケットが大きければ大きいほどいいのだ。本書は,巨大なドラえもんポケットなのである。

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 現代科学について広く知識を持ちたい,科学全体を俯瞰したいという人には絶対お勧めの素晴らしい良書である。

(2009/04/24)

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