『人類史のなかの定住革命』(西田正規,講談社学術文庫)


 どんな分野についても同じだが,定説とされる考えを真っ向から否定し,新たな説を打ち立てようとする本を読むのは楽しいものだ。場合によっては,その考えはその後否定されることもあるだろうが,とりあえず本の読み手としては昔ながらの定説・常識を繰り返し書いてある本よりは読んで楽しいことは事実だ。また,その後に否定された考えであっても,そこには往々にして,常識に捕らわれない豊かな発想があるし,常識人が見逃している視点が示されていることがあり,発想法を学ぶのに最適なのだ。

 本書の内容についても,現在の考古学や縄文研究でどのように扱われているのか,普及しているのか,否定されているのかもわからないが,少なくとも本書を読む限り,その論理の展開は明晰だし,発想は地に足が着いているものだと思う。そういう意味では,出会えてよかったなと思えた一冊である。

 ちなみに本書は1986年にハードカバー本として出版され,その後絶版になり,2006年に講談社から文庫として再出版されたものである。


 本書が挑む常識は人類の生活様式の変遷の仕方だ。従来の説では「狩猟採取生活⇒栽培・農耕生活⇒定住生活⇒・・・」と変化したというのが常識だが,本書では「狩猟採取生活⇒定住生活⇒栽培・農耕生活」の順序でなければいけない,農耕生活したから定住したのでなく,定住していたから農耕が可能になったのだ,と説明する。要するに,原因なのか結果なのか,である。

 そして作者は遊動民(遊牧民)の生活に関する豊富なデータ,霊長類についての研究,そして日本各地に残る縄文時代の遺跡を丹念に調べることで,一つ一つ証拠を積み重ね,人類が定住生活を選んだこと自体が大きな革命的な出来事であったことを証明する。そして,何が遊動生活から定住生活に移行させる原動力だったのか,それまでの霊長類が経験したことのない定住生活を可能にするために何が必要だったのかを見事に浮かび上がらせていく。

 ニホンザルもチンパンジーもゴリラも一カ所に定住することはない。生活する範囲は決まっていても,その中で常に移動しながら生活し,集団もある数以上に大きくなることはない。そして,食料が少なくなってきたら新しい場所に移動するため,環境が荒廃することはないし,住処が排泄物やゴミで汚れることもない。また,一つの場所に留まっていないため,敵に襲われる危険性も低くなる。

 今から700万年前にアフリカの大地溝帯に最初のヒトが誕生し,世界各地に生息範囲を広げていったが,それから700万年間,ヒトは基本的に遊動生活で暮らしていた。定住することもなく,大人数による社会を作ることもなく,その環境で生きられる人口密度を維持しつつ平穏に生きていた。本書の言葉を借りれば「不快なものには近寄らない,危険であれば逃げていく,この単純きわまる行動原理こそ,高い移動能力を発達させてきた動物の生きる基本戦略」なのである。


 だが今から1万年前,ヒトはなぜか700万年の伝統ある遊動生活をやめ,定住生活を始めた。日本でいえば縄文時代がこれに相当する。そして,定住生活が始まるや否や,ヒトの生活はどんどん変化していった。定住生活が始まってすぐに穀類などの栽培,農耕が始まり,大きな集落,そして都市が出現し,さまざまな道具が作られ,作業は分業化され,社会の階層が生まれ,国家をいう仕組みが生まれた。まさにこの1万年は怒濤の1万年である。何しろ,一世代30年として,わずか300世代の出来事なのである。

 従来の考えでは,採取・狩猟生活者が定住を始めた理由として食料生産,つまり農耕が始まって大量の食料が安定的に得られるようになったから,と説明してきた。要するに,1万年前までは食料が十分でなかったため,定住したくてもできなかった,という考えだ。本書の著者が反対しているのはまさにこの点なのである。

 現代人は定住生活をごく自然な当たり前の生活様式として考えていて,定住でない生活は異常だと考えている。だから,決まった家を持たない生活をする世界各地の先住民の生活をテレビで見ては,気の毒だな,遅れているんだな,文明的でないな,と思ってしまう。


 しかし,遊動生活から定住生活を見直すと,実は定住生活には問題が山積みなのだ。定住生活ではそういう問題をすべて解決しなければいけないのだ。

 定住生活ですぐに問題になるのは排泄物とゴミの問題だ。遊動生活では排泄物が溜まって臭ってきたら別の場所に移動するだけでよかったのに,定住生活ではそういかない。トイレの場所を決めたとしても,生活員全員がその場所を守らなければ意味がないのだが,何しろそれまで決まった場所でウンコをしたことがないのである。これがいかに大変かは,赤ん坊にウンチとオシッコを教え込むのに数年かかることから考えてもわかる。霊長類には基本的に,「決まったところで排泄する」という本能がないのである。

 さらに,自然災害があってもその場所から逃げ出せないし,集団生活している人間同士の不和があってもそこから逃げ出せない以上,グループ内で解消するしかない。要するに,それまで遊動生活をしていた人間が定住するためには,解決しなければいけない問題だらけなのである。


 だからこそ,本書の著者は「渡来人が稲作文化をもたらしたことで弥生時代に入り,人々は定住生活を送るようになった」というのが嘘だと断定するのだ。定住生活がまずあり,その後に稲作が伝えられれば稲作を始められるが,遊動生活をしている人間がいきなり定住して稲を作り始めるのは不可能だということを,膨大な事実から結論付けるのだ。

 では,遊動生活から定住生活へと移行させた原動力は何だったのか。それについて筆者は見事な回答を導き出す(それが何なのかは本書を読んでのお楽しみ)。そして,定住者が登場したとき,その周囲の自然環境はどう変化するのかを描き,それが農耕生活に自然に移行していった様子を説明する。


 以前,文明の発展過程の違いを生み出したのは穀物の原種となる植物がその地域にあったかどうかの違いだ,という本を紹介したが,人間が定住することで森林の植生が変化し,それが栽培作物,食用食物を優先種として選択されたから,というシナリオも加えられそうだ。

 これまでの日本の古代史研究では,縄文時代をどう解釈するか,どう評価するかで困っていた。それ以前は旧石器時代,新石器時代の狩猟採取生活であり,弥生時代は稲作による新しい時代である。しかし縄文時代はその狭間にあって,「多数が集まって生活してはいるが稲作は始まっていない未発達な社会」とされてきた。要するに「狩猟採取生活⇒栽培・農耕生活⇒定住化」という流れで解釈する定説では,縄文時代はこの流れからはみ出す異端者なのである。
 それに対し,本書では「縄文時代は定住社会であり,弥生時代は定住時代を基にして稲作が始まった時代」と明快に論じている。極めて判りやすいし,腑に落ちる説明だ。

(2009/05/18)

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