科学技術系の本を読む楽しさの一つは,未知の知識に出会えた瞬間と,既知の知識同士が思いがけなく結びついた瞬間である。その意味でこれは私にとって後者の楽しみを与えてくれた本である。この本が示す科学的事実のほとんどは以前から知っているものばかりだったが,いろいろな本で知っていた事実が意外なところで結びつき,「知の巨大なジグソーパズル」のピースの幾つかがピタッとはまり込むような快感が得られたのだ。
例えば,
「窒素を捕らえる脱窒素細菌がいなければ,地球の窒素のかなりの部分が硝酸塩の形で海に流出して陸の生物が利用できなくなってしまう。海洋生物はこの硝酸塩をいくらか利用することができるが,海洋の生命には鉄その他の元素が不足しているので,それを全て利用することはできない。」という何気ない一文がそうだ。ここで私の頭の中で『培養できない微生物たち』,『鉄理論=地球と生命の奇跡』そして『共生という生き方』の3冊が一つに組み合わさった。なるほど,そういうことだったのかと思わず膝を打った。頭の中のモヤモヤした霧が一挙に晴れる一瞬を経験すること以上に面白いことは滅多にない。
この本では「地下の世界」をさまざまな面からその魅力を解き明かしていく。例えば,地球最初の生命が生まれた場である海底の泥,その泥が「原始酵素」としてRNAが複製されるメカニズムが作られたこと,そして地下奥深くに作られた壮麗な「古細菌の王国」,その古細菌発見の歴史と発見者の苦闘,そして,化学的に不活性な窒素ガス(N2)が生命に最も重要な元素であるという矛盾をいかに解決したかなどを見事に魅力的に提示する。そして,ダーウィンが後半生をかけて解き明かしたミミズを中心とした生態系の不思議さ,アメリカの大地におけるプレーリードッグの役割,そして,表土という生態系を失った土がいかにして不毛の大地に変化したかを鋭く指摘している。最後のあたりは,『土とは何だろうか』と合わせて読んでみるとより面白いと思う。
個人的に一番面白かったのは古細菌の世界とその発見の過程を描いた「第2章 住める世界」,「第3章 系統樹を揺さぶる」の2つの章である。古細菌についてはもちろん以前から知っているが,改めてその不思議さを教えられた。
例えば,その恐るべき耐熱性がそうだ。なんと,至適分裂温度が106℃で113℃でも分裂を続ける古細菌が見つかっているのだ。水の沸点よりはるかに高いのに,細胞内の水は沸騰しないのである。おまけにこの古細菌は沸点以下に温度が下がると分裂が鈍り,91℃以下になると「寒すぎて」休眠状態に入るのだ。
ちなみに,私たちが一般的に細菌と呼んでいる「真正細菌」にはこのような耐熱性を示すものは一つも見つかっていないし,真核生物の耐熱限界はそれよりはるかに低い。
だが,エネルギー効率,つまりATP生成速度という面から見ると立場は逆転する。酸素という「地球最初の汚染物質」を呼吸に利用できた真正細菌は古細菌よりはるかに速く分裂できるのだ。酸素(O2)は最強の電子受容体だったからだ。大量のATPを生み出してくれる酸素は一方で細胞と遺伝子の強力な破壊者だったのだ。逆に,この「汚染物質」と折り合いが付けられなかった古細菌は酸素のない「地下」という環境を生存の場所として選んだわけだ。
ちなみに,酸素については『生と死の自然史 ‐進化を統べる酸素‐』が参考になる。
そして,全生物界が3つのドメインに分けられるという生物学を揺るがす発見を(図らずも)してしまったカール・ウーズの苦闘も興味深いものがある。彼はリボソームRNA(rRNA)の配列を比較することで生物進化と生命の起源の問題を解決できるのではないかと思いつき,独自で研究を始めたのだが,もちろん,それは世界初の研究であると同時に,同時代の生物学者,細菌学者には思いもよらない奇想天外な発想だったのだ。
そしてウーズは偶然手に入れたメタン生成菌のrRNAを他の細菌や生物と比較することで,それが全く異なっている生命体であることを知る。そして,地球上の全生物が3つのドメイン(古細菌,真正細菌,真核生物)に分けられると,1977年に発表する。新種の動物を1種類発見しただけで生物界に名前が残るというのに,ドメインという概念を発見したのである。要するに,未知の山を見つけただけでも偉業なのに,新大陸を丸ごと一人で発見してしまったようなものである。
だが,同時代の微生物学者や生物学者で彼の研究成果を理解できる者は一人もいなかった。それまでの微生物学の常識は「顕微鏡で見て形態の違いで分類する・代謝の違いで分類する」ことであり,動物や植物,微生物の分類は「形態による分類」するのが常識だったからだ。そして生物学者たちは,ウーズが積み重ねた膨大なデータを全て無視した。
専門家は専門分野を揺るがす大発見を前にしたとき,恐るべき保守性を発揮し,その「世紀の大発見」を葬り去ろうとする。
なぜウーズは「生物学の常識はずれ」の研究方法を思いついたのだろうか。それは彼の経歴による。彼は大学時代は物理学を専攻し,その後生物学に転じたのだ。そのため,同時代の生物学者,微生物学者の誰もが思いついていない物理学的手法を持ち込めたのだ。だからこそ彼は,誰もが見逃していた巨大新大陸を発見できたのだ。「専門家の常識」を持っていなかったからこそ,破天荒な発想ができたのだ。
生物学界から無視され続けたウーズはトマス・クーンの『科学革命の構造』に出会い,勇気付けられたそうだ。科学の進歩とは常に,先駆者の苦闘の歴史に他ならないことが,その書に書かれていたからだ。
後にウーズは微生物学における最高栄誉である「レーウェンフック・メダル」を受賞する。125年間で12名しか受賞していないという歴史的な重みのある賞である。
レーウェンフックは18世紀,手製の顕微鏡で最初に微生物を見た一人だったが,同時にまた,苦闘と苦難の研究者だったのだ。彼が親しい友人にあてた手紙には次のような一節が書かれている。
「無知の人々は私が手品師で,存在しないものを人々に見せるという。しかし彼らを許さなければならない。彼らにはそこまでわからないのだから。・・・新しいものはしばしば受け入れられない。人々は,教師が自分に押し付けたものにこだわるからだ。」レーウェンフックの誠実な人柄と研究者としての矜持に感動する。
(2009/09/14)