感染症は実在しない―構造構成的感染症学(岩田健太郎,北大路書房)


 この書評の後半ではちょっと辛口モードになるが,それは,「認識するとはどういうことか,実在とは何か」という哲学的(?)議論についての私の認識不足・知識不足によるものであり,本書の科学的な内容に対する疑問ではないことを最初に断っておく。医学的には素晴らしい本である。まず最初にそれを断わっておく。


 『感染症は実在しない』という書名にまずびっくりする。もちろん,中身を読めばこのタイトルもありだな,と納得できるのだが,本のタイトルとするのはかなり冒険だと思う。通常なら『感染症は実在するか?』というタイトルにするんじゃないだろうか。もちろん,人目を惹くタイトルにしなければそもそもその本を手に取ってもらえないのだから,ある程度センセーショナルなタイトルにするのは常套手段だが,反面,キワモノとして見られてしまう危険性も増すわけである。そういう意味で,よくこのタイトルに決めたなと思った。

 ちなみに通常の場合,本のタイトルを決めるのは著者でなく出版社なので,この本の刺激的タイトルももしかしたら出版社がつけたものかしれない。


 さて,本の内容はどうかというと,タイトルに比べてかなり常識的だと思う。要するに,「病気の原因」があって「病気」が発症する,という風に考えがちで,「病気の原因」を見つけると「病気だ」と判断(診察)してしまう。具体的に言うと,「痰からMRSAが検出されたから,MRSA肺炎だ」と診断するパターンがそれだ。ところが,細菌が体に入ったからといって全例感染症が起こるわけでもないし,症状の出方にも差があるわけで,「病気の原因(例:感染起炎菌)」と「病気(例:感染症)」は別物なのである。

 そこで医者はどうするかというと,検査をして基準値を超えると「異常」とみなし,病気と判断して診断するうわけである。ところが,この基準値というやつが曲者で,高血圧の基準値にしても講師血賞の基準値にしても,いわば強引に引いた人為的な基準線でしかないのである。さらに,検査をするかしないかは医者任せである。

 要するに二重,三重に「恣意的に決めた方法と基準」で診断されるのが「病気」であり「感染症」なんだよ,突き詰めていけば,それらは実在しないんじゃないか,というのが本書の最初の部分である。そして,ガンの場合はどうか,メタボリック症候群なのはどうか,他の疾患は実在するのについて,様々なデータを提示しながら,それらが実在しないことを証明していくのが後半部分に当たる。その手際は見事だし,論証の道筋も十分に納得できるものだ。少なくとも,「学会のガイドラインで決められた基準値だから正しい」と頭から盲信している医者にとっては,かなりショッキングな内容ではないだろうか。


 では,手放し大絶賛本かというと,本書の本質的な部分でないところに,ちょっと問題を提議する。

 まず,「構造構成的感染症学」とサブタイトルをつけるのであれば,本の前書きか第1章で「構造構成的」とはどういう概念なのか,何をもって「構造構成的」と考えるのかを説明をすべきである。でないと,私のように「構造構成的」ということを知らない無知な読者は,「構造構成的とはどういうことなんだろうか?」という疑問が解決できないまま本を読み進めるしかなく,しかも,本を読み終えてもその疑問は解消できないのだ。要するに,肺結核が実在するかしないかと冒頭で論じる前に,「構成構成的という概念について説明しよう」という一文が必要だったと思う。
 こういう問題は,本の書き手には気がつかないことが多いため(書き手にとっては「構造構成的」というのは当たり前の概念だから),通常は担当出版社がチェックすべき要件であり,岩田氏の担当編集者のミスだと思う。


 「感染症は実在しない」という主張は十分に納得できるが,本書には別の視点が欠けているのではないかと思った。それは「感染症かどうか,病気かどうかの判断を社会が求めたのではないか」という観点である。つまり,「感染症かどうかの判断」は何より社会が必要とし,その要請に医学界が応えた,という可能性である。要するに,社会が「病気か病気でないか,はっきりしてくれ」と医者に求めてきたため,「無理矢理に診断基準・診断方法」を決めざるを得なかった,という可能性だ。

 例えば,「感染症の正体が分かり,それが人から人へと感染するものとわかったとき,感染症にかかっているかどうかを判別し,罹患している人を社会から隔離する必要があり,その判断基準を医学界に求め,それに医学界が応じた」というのは,いかにもありうる話だと思う。医学は社会の中の存在である以上,社会の要請が研究の方向性を決めてきたことは,過去の歴史を見ると明らかだ(実際には恐らく,医学上の発見が社会に普及し,それを元に「世論」が形成され,その世論がさらに研究を加速させる,という相乗効果だろうと思うが)。

 では,このような社会からの要請で診断基準を決める場合,「感染症に罹患している人を見逃す可能性がある」診断基準と,「実際に感染症にかかっていない人もひっかけてしまう」診断基準では,どちらが有用だろうか。もちろん,後者の方が有用だ。そちらの方が社会全体として低コストになるためだ。だから,科学的な価値が低い診断基準であっても,社会としてはそれで十分なわけである。医学が社会の中の存在である限り,このような問題は避けて通れないはずだ。

 要するに,医学は科学的な存在であると同時に社会的存在である。それは,「冠婚葬祭と病気では会社を大っぴらに休めるが,その他の理由で休むのは大変」ということからもわかる。要するに,病気か病気でないかの判断は社会が要求しているものであり,個人が病気であるということは,社会にとって冠婚葬祭(これは地域社会を維持するために重要な祭祀である)と同じくらいの位置づけでとらえられている,ということにならないだろうか。


 「診断基準とは恣意的な線引きであり,科学的根拠に乏しい」というのは極めて正しいが,これは要するに「何歳からを成人とするか」という議論と同じではないだろうか。20歳からを成人とするのか18歳からとするのか,はたまた21歳にしたらいいのかと,様々な意見や考えがあり,なかなか統一できないのが現状だ。また,成人の基準は国ごとに異なっているのも事実であり,戦国時代は14歳くらいで元服していたのだからその基準は時代とともに変遷しているわけだ。

 なぜ,基準がさまざまで統一できないかというと,何歳で線引きしても所詮は人為的な線引きに過ぎないからだ。21歳から成人と決めたとしても,20歳11ヶ月29日までは成人ではなく,翌日からいきなり成人とするのはどう考えても不合理だ。18歳でしっかりした考えの人もいれば30歳近いのにオイオイ,という人もいるからだ。
 また,一人の人間を見ても子供から大人への変化は連続的であり,「いつの間にか大人になったなぁ」と親が驚いたら,それがおそらく本当の「成人」ではないかと思う。

 しかし,法律上や規則,社会システムの上ではきっちりと線引きしてくれないと困るのだ。20歳から成人と決めたらそれを1日でも過ぎれば成人だし,1日足りなければ子供と強引に決めなければ,社会の制度上,困るのだ。だから,不合理とわかっていてもどこかで線引きをしなければいけない。

 多分,病気か病気でないかの診断基準も同じだろうと思う。線引きすることは不可能だが,社会のシステムを維持するためには強引にでも線を引かなければいけないのだ。


 恐らく「メタボリック症候群は実在しない」と断定してもそれで困る人は世界中にほとんどいないが,「肺ガンは実在しない,肺炎も存在しない」と言われると「それでは自分の苦しみは何が原因なのか?」と困惑する人が多いと思う。この違いは何かというと,メタボリック症候群は限りなく幻に近い実在性の希薄なものだが,肺炎や肺ガンはそれより幻度が低くて実在度が高い,という違いであろう。

要するに,メタボリック症候群で苦しんでいる患者は世界のどこにもいないし,「あなたはメタボリック症候群だ」と診断されてもせいぜい「これからちょっと運動するようにするか」程度の存在なのだ。一方の肺炎は肺ガンは世界中にそれで苦しんでいる人がいて,その人たちにとっては肺炎も肺ガンも間違いなく「実在する」ものであり,その人たちは決して「肺炎(肺ガン)という実在しない幻」に苦しんでいるわけではないと思う。

 こういう「実在度,幻度」の違いを無視して一緒くたに論じても,あまり意味はないような気がする。


 ではなぜ,「感染症は実在しない」ように見えるのか。それは,細菌や微生物と,宿主である人間の関係が動的で刻々と変化するものだからだ。具体的に言えば,共生,寄生,感染というのは独立した状態(関係)ではなく,宿主と細菌(微生物)のその時々の力関係により,共生は寄生に,寄生は感染へと刻々と状態は変化しているのだ。おまけに,ここでは便宜的に「共生,寄生,感染」という言葉を使ったが,それらは連続的に移行しあう状態であり,寄生と感染の間には無数の移行状態があるはずだ。

 そのあたりがわかっていない医者は,細菌が人体にいるのを見ると「これは感染症」と即断してしまうが,実は「感染症の状態」は固定したものではなく,時間の経過とともに「感染症状を起こしていない状態」に変化していくものなのだ。この時,患者の状態は「感染症のはずなのに感染していない」状態になってしまうため,「感染症は実在しない」と見えてしまうのではないだろうか。

 つまり,人間の側からだけ細菌を見ると「感染症状を起こすか起こさないか」の二元論で見てしまうが,細菌の立場から人間を見ると,人間は単なる生息環境の一つに過ぎず(なにしろ体長1ミクロンの細菌にとって2メートル弱の人間の大きさは,人間にすると2000キロ,つまり日本列島のサイズになるのだ),細菌は生育環境の状態を読みながら,必要であれば感染症状を起こすし,必要なければわざわざ感染症状を起こす必要はない。要するに,細菌は与えられた場で最善の生き残り戦略を選択しているにすぎないのだ。


 と,色々と書いてしまったが,それは本書が「久しぶりに出会った知的好奇心を揺さぶられる医者が書いた本」であったからだ。本書が,奥深くて根元的な問題を投じてくれたおかげで,私も様々なことを考えることができた。医者の書いた本には面白いものはあまりないが,そんな中で本書は出色の良書だと思う。

(2009/12/04)

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