【第1章 民族の博物館,アフガニスタンを読む】
- アフガニスタンのスンニ派教徒はシーア派ムスリムに対して不寛容な姿勢を示す。アフガニスタンではシーア派は蔑まれた存在であり,経済格差もある。
- アフガニスタンの諸民族相互の関係は決して良好と言えない。国家の運営が円滑に行われることは決してなく,アフガニスタンで強力な中央政府が存在することはまれだった。こうした分裂傾向は現在のカルザイ政権までつづいているが,タリバン政権は例外的に中央集権的な政治を行った。
- 1990年代,各派入り乱れて内戦が勃発し,全土に拡大した。国土は荒廃し,食糧事情は悪化の一途を辿る。
- ここで新たな勢力が台頭。それが1994年7月に誕生したタリバン(神学生たち)。
- タリバンはパキスタンのアフガン難民キャンプで育ち,パキスタンのスンニ派の神学校で学んだ若い世代のアフガニスタン人や,パキスタンのパシュトゥン人たちをも含む組織。対ソ戦争やムジャヒディン同士の内戦で疲弊したアフガニスタン人の間では,規律や秩序確立を唱えるタリバンの訴えは受け入れられた。
- オバマ政権になってもアメリカの対イスラム世界政策に本質的な変化はなく,歴代大統領のように親イスラエルの政策を取り,イスラエルの抹殺を唱えるイスラム政治勢力に対しては対話や交流を拒み,タリバン,ハマス,ヒズボラなどのイスラム勢力を危険視していくはず。
- 2006年以前にアフガニスタン南部で活動するのはアメリカ軍以外になく,それがタリバン復活をもたらす要因となった。タリバンはヘルマンド渓谷で活動する麻薬商人とも協力関係を築き,ヘロインの生産と流通を保護する代わりに,その収益の一分を得るようになった。
- カルザイ政権は内戦で悪名の高かった軍閥の利益を保護したり,政府の要職につかせたりしたが,それは国民の信頼を裏切るものだった。これからも,カルザイ政権は,腐敗した統治能力のない政権とアフガン人に思われて行く。
- 2007年のアヘンの輸出総額はアフガニスタンのGDPの1/3以上を構成する。アフガニスタンに根付くアヘン経済は政府の腐敗の温床となり,同時にタリバンなどの反政府武装勢力の財政的基盤を築き,タリバンの復活をもたらした。
- シーア派をイスラムの異端の宗派と考えるタリバンは,シーア派を国教とするイランとも友好関係を確立しなかった。このため,反米を自認するイランもまた米軍の対タリバン戦争に空域を提供。一方,アフガニスタンにおけるタリバン勢力の復活を歓迎したのはパキスタン。従来,パキスタンはアフガニスタンをインドへの対抗上,戦略的に重要な地域と考えた。インドとの戦争になれば,アフガニスタンがパキスタン軍の拠点になり,物資の補給地となる。
- アフガニスタンの不安定は,パキスタンのイスラム過激派の活動に刺激を与え,その活動はインドにも浸透してインド最大の治安上の脅威となっている。インドがアフガニスタンやパキスタンのイスラム過激派による重大な挑戦を受けることになったのも,アメリカの対テロ戦争とは無関係ではない。また,アフガニスタン周辺諸国(パキスタン,インド,イラン,ロシア,中国など)の間で,アフガン政治に関する同意が成立していないのも問題。
- インドはタリバン勢力が台頭するまでアフガニスタンの政権を支持し続けた。インドが戦略的に敵対するパキスタンを牽制する目的のため。パキスタンは1980年代はムジャヒディンを,90年代はタリバンを支援。インドとの紛争になった場合に備えて,アフガニスタンを戦略的に利用したいという思惑があったから。
- アメリカの製造業は2008年の世界同時不況以後,著しい停滞傾向にあるが,軍需産業はアメリカ経済を支える柱だ。アメリカは1929年の大恐慌も莫大な量の兵器の製造によって第二次大戦に参戦し,戦時好況を作り出して乗り切ってきた経緯がある。オバマ政権も同じ動機の下にアフガン政策を追求して行く可能性が高い。
腐敗まみれで正当性の欠如するカルザイ政権でアフガニスタンの安定が実現するとは思われない。アフガニスタンの安定は,アフガン人の自助努力を国際社会が後押しするという姿勢でしか得られないのでは。
【第二章 悲劇の国,パキスタンを読む】
- パキスタンの建国の父,ジンナーは1948年に他界。独立からわずか13ヶ月のこと。パキスタンが何とか独立を維持できたのは,ジンナーのカリスマ性と手腕によるところが大きかった。ジンナーを早期に喪失したことはパキスタン国家に取ってその政治的進路を決定するうえで大きな痛手となった。
- 2005年,ブッシュ政権はパキスタンがパレスチナ人国家建設のために国際努力に加わるように促す。ブッシュ政権は,イスラム国であるパキスタンの参加により,アメリカの中東和平への新展に関する意気込みをアピールしようとした。
イスラエルとの宥和政策がムシャラフ大統領とその取り巻きだけで決定されていたことは明らか。ムシャラフのイスラエル接近は,アメリカをパキスタンに接近させ,敵対するインドへの配慮から行われたもの。
パキスタンは「イスラエル・カード」をめぐっても,対アメリカ外交でジレンマに立たされている。イスラエルとの交流促進はアメリカ政府を喜ばすが,「イスラエル・カード」は国内のイスラム過激派の神経を逆なでするもので,容易に用いることができない。
【第三章 アメリカの思惑がもたらしたもの】
- 9.11を受けてパキスタンでは,パキスタン国家そのものが国際社会からタリバンと同一視されているのではないかという感情が国民に広く共有されるようになった。事実,パキスタンのタリバンは,アフガニスタンのタリバン崩壊後に生まれ,成長した。さらに国内では,イスラム主義者たちが「至純なイスラム国家の創設」を訴え,イスラム過激派は暴力を振るっている。このような状況では,パキスタン=イスラム過激主義の温床というイメージが流布してもおかしくない。
- しかし,パキスタンでは伝統的に穏健なイスラム神秘主義の信仰が盛んだった。パキスタンのイスラム神秘主義教団の信奉者たちは現実的で,イスラム主義者達によるイスラム国家の創設の考えに反対している。
- パキスタンで過激主義が台頭するのは1980年代。アフガニスタンで対ソ連戦争が勃発したため,パキスタン政府は政治の正当性をイスラムに求めていった。すなわち,無神論を唱えるソ連に対抗するため,イスラムの宗教的至純性が強調されるようになり,イスラムは本来平和を説くものの,極端な会社によって神の敵に対する戦争が正当化されていった。
- 東西冷戦の中,アメリカのCIAはムジャヒディンに武器を提供し,ムジャヒディンによるヘロイン生産も黙認。ヘロインの生産は,ムジャヒディンの戦費の調達に役立つと考えたから。
- パキスタンとサウジアラビアの情報機関は,世界中からムジャヒディンを集めることに尽力し,82年から92年の間,40の国々から35000人のイスラム義勇兵がアフガニスタンに終結。湾岸諸国はアフガニスタンの「聖戦」に膨大な資金を注ぎこむ。アフガニスタンに隣接するパキスタンの国境地帯では神学校が続々と建設され,厳格で急進的なイスラム・スンニ派の教えが普及していった。
- アメリカのカーター政権は,ソ連のアフガニスタン侵攻は第二次大戦後の最大の危機だと主張。アメリカはソ連侵攻に抵抗するあらゆるムジャヒディン組織に対し支援を与える。アメリカはムジャヒディン組織がイスラム的であろうが,反米感情をもとうが,援助を与え続けた。
- アメリカが間接的にしかアフガニスタンに関与しなかったのは,アメリカがカブールの新政権に独自の構想を持っていなかったためとされる。アメリカの主要な関心はソ連軍にいかに多くの軍事的なダメージを与えるかどうかだけだった。
- ムジャヒディン組織に対するアメリカや中国などの援助は増加。アメリカはアフガニスタンでのソ連軍への抵抗がイスラム原理主義,あるいはイスラム過激派的色彩をもつようになったことにあまり関心を示さなかったし,それがどのような結果をもたらすかも意識しなかった。レーガン政権はアメリカの経済的不況を軍需産業の活動を活発にすることによって乗り越えようとしたことに関連する。対ソ強硬政策のもとで国防費を増加させることでアメリカ経済の再活性を図ろうとした。
- アメリカのムジャヒディンに対する後押しは場当たり的なものだったが,アメリカによるアフガニスタンのイスラム過激派への支援が,イスラム過激派のテロを拡散させることになるとはアメリカ政府には予想されていなかった。
- ムシャラフ政権はイスラム・スンニ派の急進派組織を解体することに熱心でなかった。それらの組織はカシミール紛争でインドと戦闘を行う上でパキスタンに取って必要だったから。
- 2001年のタリバン政権崩壊後,パキスタンのイスラム過激派たちは避難する場がなくなる。9.11後,パキスタンはアメリカの同盟国になったため,タリバンを通じてアフガニスタン政治に影響を与えようとする姿勢を変更せざるを得なくなった。
- アフガニスタンでタリバン政権が崩壊すると,タリバンや親タリバン勢力がパキスタンの部族地域に逃げ込み,ここを拠点に北部同盟や米軍への抵抗を開始。アメリカはムシャラフ政権にタリバンとその支持者に断固たる方策を取るように圧力をかけたが,部族地域への軍事制圧は,部族たちの反発を招きかねないという不安がパキスタン政府にあった。
- パキスタンの部族地域にはトルコ人,アラブ人,ウズベキスタン人,ウイグル人などの武装勢力が活動拠点を設けるようになった。世界中のイスラム過激派がパキスタンに終結したようなもの。
- パキスタン軍が真剣にパキスタン・タリバンの部族地域のイスラム過激派を制圧するとは考えにくい。パキスタン軍部はインドとのカシミール紛争でイスラム過激派を利用し続けてきたし,他方のパキスタンのイスラム過激派は,部族地域やアフガニスタンで外国軍と戦うことが大義となっているため。部族地域の過激派と敵対することは,パキスタンの現体制を揺るがしかねない。
- パキスタンに革命的イスラム勢力が終結するようになったのはアフガニスタンにおける対ソ戦争以降。パキスタンのイスラム過激派には,暴力を抑制する思想的な歯止めがない。
- 南アジアの混迷に対して,軍事的な解決方法がないことは明らかで,オバマ政権の方針がさらに南アジアを混乱に陥れる可能性がある。南アジアの安定には,アフガニスタンに安定した政治社会を建設すること,インドのジャンム・カシミール州におけるムスリムたちの希求を聞くこと,さらにアメリカが排除するイランを含め,地域の問題を処理する協調体制を構築することが必要。
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- 農業の振興とともにインフラ整備のために重要なのは,教育制度の充実を図ること。特に貧困層は,急進的な思想が説かれる神学校での教育に頼らざるをえない。
- 現在のパキスタンでは,貧困によって急進的な神学校に子弟を預け,衣食住を提供してもらっている貧困層が多い。神学校の教師には教員資格というものがない。そのため,いくら急進的な思想を持っていても,神学校では教育できる。つまり,急進的思想の拡大再生産される構造が南アジアでは根強く備わっている。