『小惑星探査機 はやぶさの大冒険』★★★(山根一眞,マガジンハウス)


 これは現代のオデュッセウスの物語だ。2年間かけて目的地にたどり着き,任務を果たして帰途につこうとしたその時から様々な苦難と災厄に見舞われ,半死半生の重傷を負い瀕死の状態だったにも関わらず,それでも5年かけて奇跡の生還を果たした勇者の物語だ。そしてこれは同時に,世界最高の知識と技術を持つ男たちの14年間に及ぶ苦闘と栄光の物語でもある。


 神は細部に宿るという。この500キロ足らずの探査機のどんな小さな部品にも「創意工夫と斬新なアイディア」という神が宿っていた。そしてそれは,なにが何でも「はやぶさ」を「イトカワ」に到着させ,地球に呼び戻そうという凄まじいばかりの執念と型破りの発想と,その発想を実現する優れた技術の結晶だった。

 私は宇宙工学もロケット工学もド素人だが,この計画がどれほど困難で常識はずれだったかは理解できる。

 何しろ,目指すのは秒速30万キロの光速でも16分以上かかる彼方に浮かぶ,500メートル足らずの小さな天体「イトカワ」だ。しかもそれは秒速30キロメートルの超スピードで公転する無数の小惑星の中にあり,その中から目指す「イトカワ」を見つけ出し,イトカワと同じ秒速30キロで完全に併走し,着陸できそうな平らな部分を自分で探し出し,そこに着陸し,「イトカワ」表面の砂を採取し,また地球に戻ってくると言う気の遠くなるような計画なのである。「東京から2万キロ離れたブラジルのサンパウロの空を飛んでいる体長5ミリの虫に弾丸を命中させるようなもの」という本書のたとえが,本計画がどれほど途方もないものだったかがよくわかる。


 しかも,いったん打ち上げてしまえば,故障が起きても修理することは不可能だし,行く手にどんなトラブルが起こるかもわかっていない。しかも,宇宙空間という過酷な環境に4年以上晒されるのだ。これでトラブルが起きないわけがない。

 だから,「はやぶさ」にはあらかじめ想定されるトラブル全てに対処できる機能を組み込んでおかなければいけないが,「はやぶさ」の重量はわずか500キロ,3辺の長さはほぼ1.5メートルの直方体なのだ。つまり,軽自動車より小さい。この中に,往復7億キロ,4年半分の燃料とエンジン,姿勢制御装置,撮影装置,画像分析装置,ソーラーパネルと充電池,通信装置,コンピュータを全て組み込まなければいけないのだ。だから,「想定されるあらゆるトラブル対処法」を組み込む余裕はない。積み込めるものは極限まで切り詰め,必要最小限にまで削ぎ落とさなければいけない。

 そして,日本の管制室(相模原にある)と「はやぶさ」の絶望的な遠さ(光ですら16分以上かかる)と,命綱とも言うべき通信回線の非力さに言葉を失う。なんと8bpsなのである。現在のインターネット回線(100Mbps)とは比べものにならないのは言うまでもないが,私が初めてパソコン通信にデビューした当時の14.4bpsに比べても速度は1/1000以下である。こんなもので「はやぶさ」は,撮影した100万画素の映像を地球に送り,管制室からの修正プログラムを受け取っていたのだ。しかも,なるべく電力を使わずに,である。
 たとえて言えば,モールス信号で画像データを送り,修正プログラムを受け取るようなものだ。しかもモールス信号を受け取るのに16分,こちらからモールス信号を送るのに16分かかるのだ。それであの鮮明な「イトカワ」の画像を送ってきたのだ。


 これだけでも想像を絶する大変さなのに,「はやぶさ」は想定を超えるトラブルに見舞われ続けたのである。実際,「はやぶさ」が直面したトラブルはどれもこれも深刻なものばかりだったのだ。

 例えば,「イトカワ」から離陸した直後の化学推進エンジンの燃料(ヒドラジン)漏れ。ここで「はやぶさ」はソーラーパネルを太陽に向けることもアンテナを地球に向けることもできなくなった。その後,なんとか立ち直ったものの,直後にさらに大規模なヒドラジン漏れがあり,「はやぶさ」は姿勢を保つことも(これができなければソーラーパネルからの充電ができない),地球と通信することもできなくなり,「はやぶさ」は深宇宙に姿を消す。

 しかし46日後,「はやぶさ」は不死鳥のごとく復活し,満身創痍の状態ながら地球帰還軌道に回帰する。これでようやく帰れるかと皆が安堵したその時に狙い定めたように,地球帰還の最後の手段である4器のイオンエンジンが全て停止してしまうのだ。
 まさにこの時「はやぶさ」は,太平洋のど真ん中でエンジンが壊れ,帆もなく,オールにできる物も全くない船になってしまった。


 全てのプロジェクト・メンバーが万事休す,打つ手なし,「はやぶさ」もこれまでと思ったその時,一人のエンジニアがこともなげに言う。「これでようやく,あの機能を試す時がきた」・・・と。なんと「はやぶさ」には更なる機能が前もって組み込まれていたのだ。そして彼はいう。「実験機であるはやぶさだから,当然のことだ」と。

 手足をもぎ取られたかに見えた「はやぶさ」には翼が隠されていた。新たな翼を得て「はやぶさ」は命あるもの,意志あるもののごとく地球を目指す。そして,2010年6月13日,「はやぶさ」は3億キロの彼方から地球に舞い戻ってくる。だが,「はやぶさ」は地球に戻ることはできなかった。
 「はやぶさ」は,「イトカワ」のかけらを地球に渡すため,完璧なタイミングで「カプセル」を切り離し,自身は3000度の業火に包まれて,壮絶な最後を迎える。その姿が美しくも悲しい。


 最後の,プロジェクト・マネージャーの言葉がいい。「これは奇跡じゃないし,奇跡とは呼びたくない。努力です。しかしそれ以上に,おもしろかったからできたことです」。

 どんな労苦も厭わず,どんなトラブルにも怯まずに立ち向かい,駱駝が針の穴を通るような僅かな可能性にかけて最後まであきらめず,そして栄冠を掴んだ男にこそふさわしい言葉だ。

(2010/08/10)

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