『辺境生物探訪記 ー生命の本質を求めて』★★★(長沼毅+藤崎慎吾,光文社新書)


 私は活字中毒症である。電車や新幹線に乗ろうとしている時に手元に雑誌などがないとわかるとキオスクに走って中身も見ずに適当な雑誌を買ってしまうし,一人で外食するときもまず,本屋かコンビニに行って「とりあえず活字が書かれているもの」をゲットしてからでないと食べ物屋さんに入れない。

 そういう私だが,どうしても食指が動かないジャンルの本がある。対談を本にしたやつだ。どんなに有名な作家同士の対談だろうが,科学者とジャーナリストの座談会だろうが,対談本だとわかると途端に買う気が失せてしまう。なぜかというと,活字の数(量)に比べて内容が薄いからだ。例えば

「それって○○ってことですよね」
「そうそう,○○なんだよ」
という感じの文章を見ると,買ったばかりの本でも破り捨ててゴミ箱に捨ててやろうかと思う。要するに情報密度(=情報量/活字数)が低いのだ。

 おまけに,対談集は上記のように改行ばかりで,空白がやたらと多い(対談なんだから当たり前だけど)。例えば,秋田県人同士の対談なら

「け?」
「く」
で2行なのだ(ちなみにこれは,「食べますか?」,「食べます」という秋田県限定?の日常会話。恐らく日本で一番短い会話として有名)。これでページも上下左右のマージンが広い装丁だったら,ますます内容はスカスカになる。要するに,活字好きの「本の脳内ランク」の指標である「単価あたりの字数」が低すぎるのである。

 しかし,本書で対談しているのは私の「心の師匠」,長沼毅氏である。『深海生物学への招待』,『生命の星・エウロパ』という本で「微生物との共生」という概念を一番最初に教えてくれたのは彼だからだ。このチューブワームという不思議な生物は何しろ,太陽が燃え尽きても当分生きていられるのだ。そしてその背景には,生命とは何か,生物とは何かという真摯な問いかけがあった。私が現在,下手の横好きでも生物学に興味を持ち,生物学の側面から医学を見直せるようになったのは,この2冊の本のおかげだと思っている。
 これは,そんな彼の対談集である。また,昔からの知り合いの生物の先生からも「これは面白かったですよ」と勧められ,読んでみたわけだ。


 ここでは,砂漠,深海,地中という極限状態で暮らす細菌や微生物の不思議な生体と驚異の能力が次々と明かされていく。最後の章では舞台は宇宙空間まで広がり,太陽系の惑星で地球とは別個に誕生した生命系の可能性を探り,さらには,地球にとって生命とはなになのかということまで話題にされる。いつもながらの恐るべき博覧強記ぶりと,インディ・ジョーンズ顔負けの行動力には圧倒される。
 もちろん,対談本の常として,どうしても冗長な部分があることは否めないが,そういう欠点を遥かに凌駕する美点を持つ良書である。


 本書の中で私が一番強く印象づけられたのは,地底数キロメートルの地中から発見された細菌である。なんと,1回分裂するのに100年以上(種類によっては1000年?)かかるらしいのだ。こうなると科学研究,実験で検証という概念自体が揺らいでくる。何しろ,研究者が一生のうちで分裂するところを観察できたらめっけもんである。その細菌の研究を子供や孫に託したとしても,次の分裂が観察できるのは運が良くて曾孫(ひまご),あるいは玄孫(やしゃご)である。1000年かかって一度分裂するのではないか,と考えられている細菌までいるそうだ。つまり,ナザレのイエスが処刑された日に分裂したら,その次の分裂は平安時代の末ころ,そしてその次は北京オリンピックのあたりである。中国3000年の歴史でも3回分裂して8個に増えているくらいのんびり屋さんである。

 ところが,こういうのを含めて地下の細菌の総窒素量は,陸上・海洋・土壌の全生物の総窒素量の10〜100倍という試算があるくらい,圧倒的に地下の生物の方が多いのである。まして,地球の歴史から考えたら100年も1000年も誤差範囲でしかなく,100年に1度分裂するとしても1万年では100回分裂し,2の100乗個に増えているのだ。


 こういうスローな生物群はゆっくりと着実な仕事をしているのだという。その一つがウラン鉱床の生成だ。純粋に物理現象と地質学的な現象だけでもウラン鉱床は自然に生成されるらしいが,それには計算上100億年は必要とされていて,ビッグバン長後から始まってようやくウラン鉱床が作られるらしい。こうなると,太陽系の歴史(50億年)では短すぎ,地球にウラン鉱床があることが説明できないらしい。
 それをもっと短い時間で作ったのがこの「100〜1000年に一度分裂する」スローな細菌たちらしいのだ。そしてこれはウラン鉱床だけでなく,深海邸のメタンハイドレートの生成や地底での原油の産生にも絡んでいるらしいのだ。人間が「100年に一度の大異変」なんて騒いでいるのを横目に,彼らは「100万年と200万年の違いなんて目糞鼻糞!」とばかりに悠然と慌てず騒がず生きてきたのだ。


 こういう悠久の時間(と感じるのは人間の勝手だけど)のスケールで生きている生物に対し,たかだか70〜80年しか生きられず,せいぜい50年しか研究を続けられない人間は実験すらできないのである。培養実験しようとしたら,エジプト文明のあたりから培養を始めていなければ間に合わないのだ。「芸術は長く,人生は短し」どころではないのである。

 そして彼らは,地表が温暖化して海水面が10メートル上昇しようと,全球凍結して全地表面が厚さ50メートルの氷で覆われようと,巨大隕石が直撃しようと,核兵器を使った最終戦争が起ころうと,全く無関係に10億年かけて作り上げた地下の世界で何事もなかったように生き続けていくのである。

 そしてもしかしたら,こういうスローなライフサイクルで生きる細菌の方が数が多く,地球の生命体としてはこちらの方が普遍的である可能性もあるのだ。何しろ,こういう連中がどこにどれだけいて,どうやって生きているのか,という基本的なことすら私たちは知らないのである。


 そして彼らは同時に人間の科学の限界をも教えてくれる。人間の寿命を遥かに超えるタイムスパンで生きる生物に対し,どうアプローちしたらいいのかということもあるが,「n=1」のデータしかないものをどう科学するかということである(これは本書でも言及されている)。現代の科学,とくに医学では「nが1つや2つでは話にならない。n=100でも少なすぎる。せめてn=10,000くらいないと正しいかどうかの評価は下せない」という数だのみ,統計学だのみの論理が横行しているが,このような論理が正しいとすると,そもそも彼らのような100年単位のライフサイクルを持つ生物に対する科学的アプローチの手段がないことになってしまう。しかも,その細菌を採取しようとすると地下数キロの穴を新たに掘ることから始めなければいけないのだ(既存の穴だと,既に地上の細菌に汚染されているから)。これでは,科学者が生涯かかってもn=1,あるいはn=2のデータしか得られないのである。


 その他にも,「光合成とは要するに,分子量18の水(H2O)を分解して分子量32の酸素(O2)と分子量2の水素(H2)にすることだ。水素はやがて宇宙空間に逃げ,酸素だけが溜まっていく。地球全体としてみた時,22億年前の光合成細菌(シアノバクテリア)の登場は何だったのだろうか?」という問いかけがあったりして,興味が尽きない。


 やはり私は気宇壮大で本質に根ざした生命に関する議論が好きなんだなぁ,と改めて感じ入った次第である。

(2010/09/21)

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