本書の内容や著者の主張が,現在の「万葉集」研究の中でどのような地位を占めているのか,どの程度受け入れられているのかについては全く知らないし,そういう評価は私にとってはどうでもいい。私にとって唯一の興味は面白いか面白くないか,役に立つか立たないか,それだけである。そういう観点からすると,これは「当たり!」の一冊だった。物事の考え方,論理の構築の仕方,着眼点の面白さなど水準以上の面白さだった。もちろん,元々がマニアックな内容なので全ての内容が理解できたわけではなかったが,このくらい理解できて楽しめれば満足である。
例えば,冒頭の「万葉集の中でもっとも有名な歌」についての考察からして面白いのだ。
ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ(原文:東野炎立所見而反見為者月西渡)
ご存じ,柿人麻呂である。ここで問題にされているのは「ひむがし(=東)の野に」という読み,つまり,原文の「東野」の意味をどう考えるかである。現在では,最後の「月西渡」に対応させて,「東側の野を見るとかげろうが・・・」と読むのが定説であるが,著者は平安末期,この歌が「あずまののけぶりのたてる〜」と読まれていたことを明らかにし,それが江戸時代初期にまで「正しい読み」と認められていたことを説明する。つまりこの場合,「東野」は地名であって,"東の方の野原" ではない。
その後,元禄時代の古学者が「東野(あずまの)」という地名でなく,「東(=ひむがし)」と読むべきだと新説を提案し,それが次第に認められていくわけだが,それに対し,本書の著者は異議を唱えるのだ。なぜかというと,「ひむがし」が歌に登場するのは室町時代であってそれ以前には使われず,そして何より,「ん」の音を含む「ひむがし(=ひんがし)」は和歌に絶対に使ってはいけない言葉(=雅語でなく俗語)だったからだ。
しかしその後,歌語でない「ひむがし」は「新しく作られた古語」「新しく発見された歌語」として江戸時代中期の歌人たちに捉えられ,やがて大正時代のアララギ派歌人たちが「万葉風の和歌」で「ひむがし」を多用してしまう。そのため,元々の「万葉集」の人麻呂の歌も「ひむがし」と読まれることになったようだ。
あと,かつての昆虫少年的に面白かったのは「鈴虫か松虫か」の章。現在は「松虫はチンチロリンと鳴き,鈴虫はリンリンと鳴く」が童謡にも歌われている常識だが,一方で,「実は,昔の文献の鈴虫は私たちのいう松虫。昔の松虫は今の鈴虫と逆なんだよ」というのも古文の常識,周知の事実だと思う。同様に「昔のキリギリスは今のコウロギ。昔コウロギと呼んでいたのは今のキリギリス」というのも常識であろう(少なくとも私が知っているくらいだから)。
言葉なんて時代ごとに変わるんだから当たり前かな,と思っていたが,本書を読むと全く違っているのである。本書の著者は「チンチロリンもリンリンも人間の言葉であり,擬声語である」と事実から説明し,膨大な文献的証拠から,日本人が虫の声をどのように認識してきたのか,それをどのように表記してきたのかを詳細に調べ,極めて納得のいく結論を導くのだ。これは要するに,書かれた文字しか資料(=根拠)がない文献学では避けられないものなのだろうと思う。書かれた文字や文章は優れた資料だが,人声ではない音情報を文字で表そうとした時点で,日本語で表現できない膨大な音情報が抜け落ちてしまうのである。これは本書を読むまでは全く気がつかなかった視点だった。
儒教と朱子学の関係も本書を読んで初めて知った。君子の徳を説く元祖儒教はシンプルだったがいわば自然発生的なものだったために体系的な厳密さに欠けていた。そのため後世,陰陽五行説などを取り入れることで理論化されて,それが朱子学となった。確かにこれで論理的には強固なものとなったが,必然的に「元々の儒教にはないもの」が加わってしまった。問題は「儒教と言えば朱子学」と朱子学だけを学ぶ人には,そのようなバックグラウンドがまるで見えてこなかったことにある。要するに,「朱子学≠儒学」だったのに,朱子学を学ぶ人にとっては「朱子学=儒学」だったのだ。
このような文章を読みながら,根っからのピアノ馬鹿人間は「これってピアノによるバッハ演奏と同じじゃないの?」と思ってしまうのだ。ご存知のように,現代のピアノは16世紀のチェンバロとは全く別物で,共通点は鍵盤があることだけである(・・・とはいっても,チェンバロとピアノでは白と黒が逆転しているが)。これはバロックの木管フルートと現代の金管フルートが全く別物であるのと同じだ。特に,20世紀初頭までチェンバロは博物館に置かれている骨董品であり,おいそれと誰でも弾ける楽器ではなかった。だから,バッハの鍵盤楽器(しつこいようだが,バッハはチェンバロで演奏することを想定して作曲している)を演奏する時,私たちはピアノで演奏し,ピアノで再現されたバッハを鑑賞してきた。
だが,ピアノで演奏するバッハはピアニストにとっては物足りないのだ(少なくとも私はそうだった)。ピアノという楽器はチェンバロより広い音域が使え,チェンバロより大きくて華麗な音が出せるからだ。だから,ピアノでバッハを弾く時にはどうしても無意識に「ピアノ的表現,ピアノ的思考」が入り込んでしまう。たぶんこれが朱子学の問題点なのだろうと思う(・・・違うかもしれないけど・・・)。
では,賀茂真淵の「いにしえの道を知るためには,いにしえびとの心を知らなければならず,いにしえびとの心を知るためにはいにしえの言葉を知らなければならない。そして,いにしえの言葉や表現を使って歌や文章が書けて初めて,古語・古文が理解できたと言える」という考え方はどうだろうか。
これはこれでいいと思う。古代の料理のレシピを探し出したら,それで実際に料理を作ってみて初めて,古代の料理が理解できるからだ。しかし,既に死語である「古語」を使い,数百年前の様式通りに和歌を詠むことは,確かに万葉集を理解する上では必要な作業だが,それは一面で非常に危うい作業なのだ。本書にもあるように江戸時代に「万葉時代の素直」を再現するのは,極めて技巧的,作為的行為とならざるを得ないからだ。素直で飾り気のない状態を作るために,隅々まで意識して「素直で素朴」に見せかけなければいけないからだ。
これは要するに,名料理人が古代の素朴な料理を再現するようなものではないかと思う。もちろん,再現することは可能だが,古代に普通にあった食材は既に絶滅しているかもしれないし,数百年のうちに野菜の味も変わってくる。調味料の味自体が変化しているかも知れない。そのような様々な問題を乗り越えて,「昔の素朴な味」を再現するわけだが,そのためには,あらん限りの技巧を駆使しなければ「昔の味」は再現できないはずだ。つまり「今の普通の料理」を作るのとは比べものにならないくらいの困難が待ち受けているのだ。
・・・というわけで,学問とは何かを考えるのに絶好の教材となる本である。読む価値は十分にあると思う。
(2011/05/02)