世の中には論争している当人にとっては大問題だが,端から見ていると「そんなのどっちでもいいじゃん」というのが少なくない。神学論争はその最たるものであり,「きのこの山」と「たけのこの里」戦争とか,カップ焼きそばにおける「UFO」派と「ペヤング」派の論争とかもそうだ。神様と焼きそばを一緒にするのは不敬だ,と騒ぐ人もいるだろうが,それこそ第三者から見ると五十歩百歩である。どっちもコップの中の戦争であり,神様と焼きそばで違っているのはコップの大きさと深さだけだ。
本書が扱っている問題は次の3点だ。
どれも面白いと言えば面白い問題だし,特に最後の問題については数学好きなら子供の頃に一度は悩んだ問題だと思う。第二章の九九の歴史も,第一章の「数式の書き方」の歴史ももちろん面白い。面白いのだが,どれも小ネタというか,知識がまた一つ増えたな,程度の感じなのだ。これを知ったことでより大きな世界が拓けていく契機になる知識,という感じがちょっと乏しいのだ。そのあたりがちょっと残念な感じである。
まず,【第一章 4×6と6×4は違うのか】はまさに神学論争の典型だろう。「4に6を掛けようが6に4を掛けようが答えは同じだから同じでいいじゃん」という現実派と,「そもそもかけ算とはどういう計算法なのか」を背景とする純粋理論派の間では,そもそも妥協点なんてあるわけないのである。
どういう問題かというと,例えば,
「6人に4個ずつミカンを配ります。ミカンは全部で何個いりますか」という文章題があったとする。誰が計算しても答えは24個だが,問題は,小学校では「4×6=24とすると正しく,6×4=24とすると間違いになる」としている点だ。「へぇ,近頃の小学校ではそう教えているの?」と大人はびっくりしてしまうが,本書によると実は私たちが子供の頃から「この文章題では4×6と計算するように」と教えていたのである。
その元になっている考え方は,小学2年生が2学期に習う
「1つ分の数×いくつ分=ぜんぶの数」という「かけ算の原理」が根拠らしい。だから,「4(一人分の数)×6(人数は6人)」と計算式をたてるのが正しく,6×4は正しくないのである。本書はこの問題について,第二次大戦直後の文部省の試案やら,その後の指導要領やら,膨大な資料を掘り起こして調べ,さらに,国内の数学者たちはこの問題をどうとらえているかという資料を集めて問題の本質を浮かび上がらせていく。
また,1947年には「グループの大きさ」×「グループの個数」と日本語として極めて明確だったのに,その後,「かけられる数」×「かける数」となって言葉としては易しい表現になったものの,実は被乗数と乗数の関係が逆にわかりにくくなってしまった経過とか,そもそも「かける/かけられる」は本来の日本語からすると変だとか,そのあたりも非常に面白い。
だが,本書でもちょっと触れているが,人間の本来の発想,数の表記法からすると,「1つ分の数×いくつ分」ではなく「いくつ分×1つ分の数」方式の方が自然である。実際,漢数字の表記法もアラビア数字の10進法の表記法」も「いくつ分×1つ分の数」である。
例えば,漢数字では七百,アラビア数字では700と表記するが,これはどちらも「7つの100」,つまり「7×100」という意味だ。これは八百七十二でも872でも同じで,どちらも「8つの100,7つの10,2つの1」だ。同様に,古代エジプトでもマザーグースでも「いくつ分×1あたり分」が基本的な考え方であることは本書でも紹介されている。
一方,「1つ分の数×いくつ分」だと「100が8つ,10が7つ,1が2つ」という表記になるはずだ。こういう表記の例としてローマ数字である。例えば二十三は「XXIII」と表記するが,これは「10が2つ,1が3つ」という意味だ。もちろんこれでも数字は表記できるが,ローマ数字で計算できるかと言われるとまず無理だろう。例えば,「XVII」+「XXXIV」を計算してみてほしい(ちなみに,10進法では17+34)。10進法表記に変換でもしない限り,計算なんて不可能だろう。恐らく,古代ローマ人もギリシア人も「数字を足したり引いたりするのは面倒くさいなぁ」とブツクサ言っていたと思う(もちろん,計算しにくい原因は,桁の概念が数字の表記法にないためだが)。
もしも人類がローマ数字方式しか考え出さず,アラビア人が10進法表記を発明しなかったら,恐らく人類は小さな数字の計算しかできなかったはずだ。つまり,古代エジプト,古代ギリシャのように「幾何学は驚異的に発達しているが,数値計算はあまり発達しない」可能性が高い。あのアルキメデスは,「放物線と水平線で囲まれる図形の面積」を「三角形の重心の法則とてこの原理」で正確に求めるという離れ業を書き残しているが,数字そのもので計算して答えを求めているわけではないのだ。同様に,ピタゴラスも計算して「ピタゴラスの定理」を導き出したわけではない。ピタゴラスもアルキメデスも幾何学でしか発想していないのである(『ピタゴラスの定理―4000年の歴史』山椒)。
ちなみに,基本的にかけ算は順序を交換しても成立するが,ガロアの非可換群あたりまでいくと「abとbaは異なり,順序を交換してはならない」なんてことになる。しかしこれは,ガロアとかガウスの数学レベルの話であり,私たちの日常には登場しない現象である(・・・と思う)。だから,非可換群を持ち出して「かけ算の順序は変えられない」と主張するのはかなり無理がある。
第二章の「昔の九九は九九81から始めたので九九と呼んだ」というコネタは面白かったが,九九の教え方(口訣法)だけで一つの章にしたのはちょっとやり過ぎという気もする。私だったら多分,各時代の九九の口訣法を一覧表示にしておしまいにしたかな?
第三章の「なぜ2時から5時までは3時間で,2日から5日までは4日間なのか」は,実は症例報告をする際にいつも悩むことだ。例えば,1月4日受傷の患者さんで1月5日は「翌日,1日後,2日目」という表記でいいが,1月10日は6日後,7日目のどちらがいいのだろうか。同様に,2月1日午前2時に怪我をした人が2月2日に受診したら何日目になるのだろうか。カルテを記載するたびに悩んでいる。
結局これは,基数か序数かの問題であり,連続する時間の区切って生活する「生物としての時間感覚」の問題であり,「満年齢」と「かぞえ」の違いだ。
どうやら私たちは,秒〜分〜時間のあたりまでは連続量として時間経過を捉え,日〜月〜年は離散量として体感しているのだろう。つまり,数時間までだったら「もうそろそろ10分経ったな」と知覚できるが,それより長い時間になると「夜暗くなったから一日が終わる/朝明るくなったから一日が始まる」というように日没/日の出で区切って認知しているように思われる。つまり「日没/日の出で日が改まる」と感覚する。
だから,「1月9日の夜の怪我をして救急外来を受診」した患者さんは受診時に「受傷1日目」であり,1月10日午前中に再診したら「日が改まったから2日目」と認識するのだろう。
ちなみに,『マタイによる福音書(マタイ伝)』によると,イエスは金曜日に処刑され「3日後」に復活したとされるが,「3日後」は月曜日でなく「日曜日」であり,マタイさんは処刑された日を「1」と数える「かぞえ」で記載していることがわかるそうだ。
ちなみに本書は「30字×26行×100ページ」で,原稿用紙にして190枚前後と思われる。貧乏性の本好き(=単価あたりの文字数が多い方が嬉しい)からすると,この文字数に対する本の値段はちょっとビミョーだったことを付け加えておく。
(2012/01/10)