『東京 消える生き物 増える生き物』★★(川上洋一,メディアファクトリー新書)


 世界有数の大都市東京の過去・現在・未来を「都内に生息する野生動物」という切り口から見事に描き出していく良書。非常に多くのものを教えてくれるいい本だ。


 東京は狭い範囲に1300万人がひしめいている都市だが,皇居にしろ新宿御苑にしろ明治神宮にしろ,緑豊かな公園が多い都市でもある。そして,その気になってみていると,都心でも多数の生き物が見つけられるが,そういう現在の東京を描くのが【第1章 大都会で生き残るには】である。

 例えば,垂直移動を得意としてビル街をジャングルに見立てて適応したのがハシブトガラスとクマネズミであり,クスノキの植樹とともに分布範囲を広げているのがアオスジアゲハだ(クスノキはアオスジアゲハの食草)。同様に,ナガサキアゲハもツマグロヒョウモンもそれぞれの食草が(偶然)人間によって植えられたために都内で増えている。都内で増えている生き物には,増えるなりの理由があったのだ。

 一方で,クマゼミの鳴き声は都内で聞こえるものの,都内で自生しているわけではないらしい。これは考えてみると当たり前で,地中の幼虫の期間が6〜7年間と長いクマゼミは,気候が多少温暖化したからといって自生地が広がるわけがないのだ。たまたま飛んできてそこで卵を生んだとしても,7年後に羽化した時に複数のクマゼミの成虫が同時に羽化していなければ子孫は残せないからだ。要するに,「南方の昆虫が見つかった」=「地球温暖化の証拠」ではないのである。

 【第2章 東京を狙う来訪者】では,新たに都内に定着しようとしているハクビシンやワカケホンセイインコなどが取り上げられているが,彼らは「たまたま」現在の条件が生息条件と一致しているから定着しているだけであることがわかる。その証拠に,1950〜1960年代に日本中で大騒ぎになったアメリカシロヒトリは今では探してもなかなか見つけられないのだ。この蛾の幼虫は300種類以上の植物をエサとするが,なぜか日本の自然林には定着できなかった。

 【第3章 しがみついた都心】では,昔から東京にいて,今でも数が減っていないミンミンゼミやミズイロオナガシジミ,アブラコウモリなどが取り上げられている。彼らはほとんど同じニッチで生息する他の生き物が数を減らしている一方で数を減らしていないのだ。両者の運命を分けたのはごく小さな違いだったことが詳しく説明されている。そして同時に,「人間の手を加えないことは必ずしも自然保護にはならない」例が示されている。

 そして,【第4章 野生の王国・江戸】では家康による江戸開府以後の江戸の環境の変化が詳細に説明されている。何しろ,家康が江戸を新たな都と決めた頃,江戸城の眼前まで日比谷入り江が入り込んでいた低湿地帯が広がり,利根川は江戸湾に流れ込んでいたのだ。川の流れを変え,神田の山を崩して大規模な埋め立てを行った結果,江戸は世界最大の都市に生まれ変わったのである。そして同時に,大消費都市江戸を支えるため,郊外には水田が広がり,武蔵野台地の照葉樹林の原生林は切り開かれて落葉樹中心の雑木林に生まれ変わり,江戸は豊かな海と緑豊かな里山に囲まれた多様な生物を育む人工都市に変貌した。
 しかし,その豊かな江戸の自然は徹底的に人の手によって維持されたものであり,第二次大戦,戦後の高度成長期で維持システムが破壊されてしまう。

 【第5章 それでも街は生きている】でもこの問題はさらに取り上げられるが,もっとも印象的なのは「人間が消えた時に蘇る本来の自然とは」という部分だ。「人間のいなくなった東京」はすぐに鬱蒼たる林に飲み込まれてしまうが,そこは私たちが考える「豊かな自然」とは全く違う世界で,植物も昆虫も種類が減少することになるらしい。冬でも葉を落とさない照葉樹の森は日光が地面に到達せず,その結果,鬱蒼たる森の内部は薄暗くなり,その環境に適応した動植物のみとなってしまう。要するに,カブトムシもカミキリムシもオオムラサキもいない,ゴミムシとヤスデとシダ植物の世界だ。これは,近くに杉林しかなかった秋田で生まれ育った私には,よくわかるのである。


 江戸初期から昭和30年頃までの江戸/東京の自然環境は400年近く安定していて変化していないようだ。それを支えていたのは繰り返される川の氾濫であり,水田での食料生産であり,里山でのエネルギー生産であり,人間の排泄する糞尿の完全リサイクルシステムだった。逆に言えば,この400年間,社会はそれほど大きく変化しなかったと言える。だから,人間社会の基本構造が変化してしまうと,生物多様性に富む自然も維持できなくなった。それは当然の帰着だった。要するに,江戸の町の豊かな自然は安定しているように見えて実は,「農作業などの日常業務」に支えられていた自然だったのだ。

 だから,「自然とは人間の手を入れないこと」と考えてしまうと,「人間の手で維持されている」自然は崩壊する。例えば,秋田県の八郎潟残存湖のアシ原で世界でもまれなオオセッカの営巣地が発見され,それを守ろうとして人間の立ち入りを禁止した結果,アシ原は急速に乾燥化してオオセッカは姿を消してしまった。逆に,環境保全で成功している「西多摩自然フォーラム」は人間の手を入れまくり,手塩にかけることで何とか維持されている。人間が常時手を加えなければ,自然はあっという間に乾燥化するか,照葉樹林化してしまうのだ。

 本書でも言及されているが,多くの人が「理想の東京」という時に思い浮かべるのは昭和30年代初め,つまり,《となりのトトロ》や《三丁目の夕日》に描かれる世界だ。豊かな自然が郊外に広がる郷愁の世界だ。だが,あの風景と自然は,まさに昭和30年代初めにしか維持できない自然だ。もしも本気であの頃の状態に戻そうとするなら,東京の人口も産業も社会構造も人々の生活意識も,すべて昭和30年代始めに戻さなければいけないのだ。私たちの生活は現状のままで,しかし野生動植物(=自然環境)だけは昭和30年頃に,というのはあり得ない幻想だということがよく分かるのである。

(2012/01/24)

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