一時期,カンフー映画ばかり見ていたし,ブルース・リーもジェット・リーもジャッキー・チェーンの作品はどれも大好きだ。ストーリーは勧善懲悪で単純明快で頭を使うところがないし,体の動きのキレは見ていて惚れ惚れするほど見事だし,何より主役が魅力的だ。娯楽映画としては最善の部類に入ると思う。
だが,それらを幾つも見ているうちに,「カンフー映画の社会背景はどれも同じだが,これってリアルな社会を背景にしたものなの?」という疑問を抱くようになった。ブルース・リーやジャッキー・チェーンが活躍する中国の社会とは,農民とか商人などのいわゆる庶民は小さくなって道の端を歩き,暴力団やギャングが大手を振って道の真ん中をのし歩いている社会だからだ。というか,どう見ても「法規を守っている普通の人たち」より「違法行為で生計を立てている犯罪者たち」の方が多そうに見えるのだ。もちろん,昔の東映のやくざ映画とかフランスのフィルム・ノワールの様のように,〔社会の裏側,暗黒社会を舞台にした映画〕の方が,〔普通の人々の平穏無事で変化のない様子を描いた映画〕より,映画として面白いからという理由があるかもしれないが,とてもではないがジャッキー・チェーンの映画の舞台となっている社会には生まれたくないのである。
このような「カンフー映画の社会背景は架空のものか現実なのか?」という長年の疑問が,この本を読んで氷解した。あのカンフー映画の舞台は,おそらく非常にリアルであり,このような社会が本当にあったのだ。19世紀なかばから半世紀,すなわち中国清朝末期の社会とはカンフー映画のように殺伐とした暴力的な社会だったらしいのだ。
なぜそうなったのか。理由はただ一つ,「女性が極端に少なくなった」からである。そして本書は,成年の独身男性が多い社会がどれも,殺伐とした暴力が支配する社会に変貌していったことを,詳細に分析している。要するに,いつの世でも未婚成人男性が徒党を組むとロクでもないばかりしでかしてきたのだ。
現代アメリカの殺人発生率は先進国でダントツに多い。アメリカの殺人発生率は日本の10倍,ノルウェーの8倍,イタリアの4倍,カナダの3倍だし,人口あたりの殺人事件数は,ソマリア,イスラエル,レバノンのような紛争国や貧困国よりも多い。その暴力の源泉はアメリカ人のアイデンティティの形成に,西部開拓時代が大きく関わっているからだ。実際,1870年代のカリフォルニア州の性比は166,ネバダ州は320,アイダホ州は433,カンザス州西部では768という,極端な「野郎ばかりの社会」だったのだ。しかも,アングロサクソン至上主義の考えが根底にあったため先住民と結婚することはなく,独身の野郎どもばかりウジャウジャ集まっていたのが開拓時代の西部である。その結果,何が起きたかは数々の西部劇映画が教えてくれる。「男らしさを銃の腕で証明するしかない」社会は殺戮と強奪が支配する血の社会になるしかない。そして,現代に至るまでその西部の世界はノスタルジーを持って繰り返し繰り返しスクリーンで回顧され,これぞフロンティア魂,これぞアメリカの原点と賞賛されてきた。まさにアメリカ社会のアイデンティティである。その結果,アメリカのあちこちの学校で銃の乱射事件が起きているわけである。
一方,19世紀の中国も「独身男性ばかり」の社会だった。理由は19世紀初頭から中国を繰り返し襲った飢饉である。農村では口減らしのために女児を殺した(ある村では娘の1/4が殺害されたそうだ)。男児は先祖代々の墓を守るために必要だったから,殺すとしたら女児しかなかったのである。その結果,19世紀半ばの中国では,成人男性の1~2割があぶれ,生涯結婚できなくなった。
しかも,中国では「面子」が重視されるが,面子とは「守るべき家族と果たすべき義務を持つ既婚男性の属性」であり,未婚というだけで「面子丸潰れ」なのである。そういう彼らが少しでも他の尊敬を集めようとするなら「他の既婚男性の面子」を潰すしかない。斯くして彼らは集まって徒党を組みギャングになった。そして自分たちの面子を守ろうとした。それが頂点に達したのが洪秀全をリーダーとする「太平天国の乱」だったのだ。ジャッキー・チェーンやブルース・リーがカンフーの腕を振るっていたのは,こういう社会だったのだ。
では,これらの「野郎ばかりの社会」は過去の出来事なのだろうか。実はそうではないのである。現在のアジア各国(特に中国,インド,西アジア地域)は「女児が極端に少ない社会」であり「男ばかりの社会」に変貌しているのだ。
そして,アジア地域では若年者に男性が占める率が急上昇すると同時に犯罪が大幅に増加しているのである。たとえば,1992年から12年間で中国の犯罪率はほぼ倍増したし,インドでは2003年からわずか4年でレイプ事件が3割増加,誘拐事件が5割以上増えている。そして中国でもインドでも,出生性比の上昇が早い地域ほど犯罪急増も早く始まっているのだ。
では,なぜ中国やインドで出生性比が上昇しているのだろうか。理由は国全体が豊かになり始め,生活が都市化してきたからだ。そして都市化は必然的に少子化をもたらした。だが,少子化だけでは出生性比は変化しない。自然な状態の男児・女児の受精率は変化していないからである。いくら中国政府が一人っ子政策を推し進めたとしても,それだけでは「男児ばかり生まれる」状態にはならないのだ。
出生性比増加をもたらしたのは超音波診断装置だ。装置がよりコンパクトに,より安価になったからだ。特に,GEが2007年に発売した「パソコンにつなげられる超コンパクトな診断装置」は中国やインドの農村・僻地で急速に普及し,胎児の性別を早期に知ることができるようになった母親たちは,競うように女児の胎児だけを中絶した。そして,中国でもインドでも生まれてくるのは男児ばかりになり,20年後には「独身成人男性ばかりの国」になってしまった。その結果が両国での犯罪増加であり,中国の「怒れる青年(憤青)」の荒れ狂う愛国運動らしい。
しかも,この「都市化のもたらす少子化」と「手軽で安価な胎児性別診断法」は今後,どんどん発展途上国に広まっていくはずだ。つまり,「むさ苦しく血気盛んな独身野郎しかいない社会」が世界中に広がっていると,本書は予言している。それはどう考えてもバラ色ではなく,暗澹たる未来である。
そして,現在の「男女産み分け」全盛の国々で,出生前診断を禁止し,産み分け目的の中絶を禁止したとしても,出生性比が正常化するのは早くても2050年である。また,「男女産み分け⇒出生性比急上昇」から脱却して自然な性比に戻った国は世界でただ一つ,韓国のみである。しかしそれは,女性の価値が上がったからでも,夫婦が女児を欲しがるようになったからでもなく,単に子供を作らなくなったかららしい。
本書が恐るべき警告の書となるのか,あるいは警告が杞憂に終わるかは,未来のみぞ知る・・・である。もしもその「未来」があるとしての話だが・・・。
(2012/07/30)