鉄条網の歴史★★(石 弘之/石紀美子,洋泉社)


 どんな道具にも歴史がある。食器の歴史,農機具の歴史,飛行機の歴史,鞄の歴史,本の歴史,調味料の歴史,毒の歴史,武器の歴史,傘の歴史,トランペットの歴史,靴の歴史と,数え上げれば限りがないが,どれ一つを取っても面白い歴史を持っているものだ。

 そこで本書である。書店の平台で『鉄条網の歴史』というタイトルを見て唸ってしまった。これまで様々な「物の歴史」本を読んできたが,まさか鉄条網に歴史があるなんて想像すらしていなかった。もしも,書店の平台に「テーブルクロスの歴史」とか「爪切りの歴史」というタイトルの本が「鉄条網」と並んでおいてあったら,どちらに手を伸ばす人が多いんだろうか。

 しかも,本書はかなり厚いし文字も細かいのである。つまり,文字がギッシリ詰まっている。果たして,鉄条網にそれほど「書くべき歴史」があるんだろうか。何だか,心配になってくる。これは読まずばなるまい。


 そして鉄条網だ。これは19世のアメリカで,「庭に家畜が入り込まないようにして」という新妻の願いを叶えるために一人の男が作ったものだ。

 人間にとっては花壇は畑とも牧草地とも違う特別な場所だが,家畜(草食動物)にとっては花壇の植物は食べ物であり,牧草と花壇の花を区別しない。目の前の植物が食えれば食う,というだけのことだろう。だから彼の新妻は「家畜に花壇の花を食べないような工夫をして」とお願いしたのだ。

 さて,あなたが19世紀人だったらこの新妻に何を作ってあげるだろうか。
 木の塀を花壇の周りに巡らすという手もあるが,これでは花壇の花が見えなくなる。丈夫な金属フェンスで囲う方法もあるが値段が高くつく。家畜が嫌う植物を周りに植えるという手もあるが,その植物の手入れにかかる手間がバカにならないし,肝心の花壇が見えなくなる。

 その時,この男は「トゲのついた鉄線」を思いつく。トゲが外側を向いている鉄線で花壇を囲えば家畜は花壇に入らなくなるし鉄線は安い。

 と,ここまでなら誰でも思いつく。問題は,「常にトゲが外側を向いている」ようにする工夫,言い換えれば「トゲが動かない」ための工夫だ。ここでこの男は至極簡単な解決法を思いつく。それは簡単に安く作れたため,家畜を隔離するために効果抜群の鉄条網は瞬く間に広まっていく。これが「鉄条網発明」の経過だ。


 最初の鉄条網は,家畜が食べていい草と食べていけない草を分離するために発明され,しかも単純な構造をしていた。「単純な道具」は次第にその本来の使い方を離れて使われていく宿命があるのだ。

 道具は使い方次第で様々な用途に使える。金槌は釘を打つための道具だがガラス窓を粉々にするのにも使えるし,人間を殺す凶器にも使える。バールは釘を抜くための道具だが,商店に押し入る泥棒は「バールのようなもの」を必ず(?)準備してドアを壊すのに使っている。電気のコードや縄跳びの縄にはそれぞれの本来の用途があるが,それとは別にしばしば自殺や絞殺に使われる。スコップは土や雪を掘り起こすための道具だが,スペツナズが持てば恐ろしい殺人道具に変身する。そして,道具が単純であればあるほど,その用途は広がっていく。単純なるがゆえの宿命だ。

 当初は「家畜が花壇に入らないようにする囲い」だったが,トゲの方向を内側に向ければ「家畜が逃げ出さないための囲い」となる。鉄条網は内側に囲い込むにも,外側からの侵入を防ぐにも使える道具になった。それはやがて,「空間は鉄条網で2つに分けられる」という発想が生む。

 そして鉄条網はアメリカ開拓史とともに普及していく。入植者の畑を守るため,家畜が鉄道線路に入り込まないようにするためにアメリカ中に鉄条網が張り巡らされていった。そして,鉄条網で囲われた牧草地はやがて荒廃し,表土が失われていく原因となった。鉄条網の内側は多様性に乏しい生態系となり,一部の昆虫と小型哺乳類のみが増えていった。やがて,表土を失ったアメリカの多くの土地は頻繁に黄塵に襲われるようになり,アメリカ史に名高い(?)「ブラック・サンデー」を迎える。


 当初,鉄条網は動物と人間を分ける道具だったが,程なく「人間と人間を分ける」用途に使われた。敵の侵入を防ぐために,先住民族を閉じこめるために,反対勢力を封鎖するために,奴隷に強制労働させるために,特定民族を強制収容所に閉じこめるために,サラエボ紛争では民族浄化のために,南アフリカではアパルトヘイトを維持するために,鉄条網はその持てる能力をフルに発揮した。鉄条網で囲うだけで人間は逃げ出せなくなり,好きなだけ自由を奪うことができた。鉄条網は人間に対して使われたとき,最も残忍な道具に変身した。

 そして,鉄条網は戦争の戦術を変え,戦争のあり方すら変えていった。穴を掘って鉄条網を張るだけで敵は防御腺を突破できなくなり,鉄条網の隙間から機関銃を撃てば好きなだけ敵を殺すことができたからだ。やがて敵方も同じ戦法を使うようになり,第一次世界大戦は塹壕を挟んでの持久戦となり,それは必然的に消耗戦となった。そして,その無敵に見えた鉄条網を無力にする新型兵器が出現する日が来る。


 本書はこのように,鉄条網という単純きわまりない道具が辿ってきた陰惨で凄惨な歴史を紐解いていく。いわばそれは,近・現代史の暗部・負の歴史とピタリと重なる。鉄条網はいわば,空間を隔てる道具として単純過ぎ,完璧過ぎ,そして優秀過ぎたのだ。
 鉄条網がたどった道は,ヒッタイトの鉄器やノーベルのダイナマイトと同じなのだ。

 第1章から第7章まではこのように,ページをめくるのも辛くなるような記述が続き,正視に耐えない人間の暗黒の歴史と残虐性の発露が何をもたらしたかが,事細かに綴られている。有用な道具を得たことで人間の欲望が際限なく膨らみ,歯止めがなくなっていく過程を知ることは苦痛を伴うのだ。


 そして本書は最終章「第8章 よみがえった自然」に入る。ここでは一転して,鉄条網による生物の復活の物語と未来へのかすかな希望が語られる。

 その一つは朝鮮半島の北緯38度に幅30キロで広がる軍事境界線だ。それは100万個以上の地雷と鉄条網と装甲車で守られた「世界で最も厳重な境界」でもある。しかし,人間が鉄条網と地雷で排除されたため,そこには豊かな森林と湿地が回復したのだ。ジャコウジカやアムールヒョウといった数多くの絶滅危惧種の生息が確認され,朝鮮半島で最も豊かな生物多様性が保たれている地に生まれ変わったのだ。

 もう一つはチェルノブイリ原子力発電所。現在なお,半径30キロ圏内は立ち入りが制限されている。制限区域の面積は東京都ほぼ同じで,ウクライナ政府はその半分を「永久立ち入り制限区域」にする方針を決め,制限区域に通じる道路は全て高さ2メートルの鉄条網で封鎖されているそうだ。
 だが現在,無人の町となったチェルノブイリ原発周辺は66種の哺乳類,11種の爬虫類,249種の鳥類が繁栄する自然の王国になっている。特に大型哺乳類は,その近隣地域では全く姿が見られない種類だという。絶滅危惧種のワシフクロウやオジロワシも生息が確認されている。
    ⇒【チェルノブイリのいま ー 死の森か,エデンの園か】

 これを利用し,ウクライナ政府は既に野生で絶滅したモウコノウマ(ウマの原種に近い種類で,各地の動物園でわずかに生き残っていた)やヨーロッパバイソン(アルタミラ洞窟壁画に描かれているウシはこれ)をここに放して増やそうとしているらしい。
 原子力発電所事故により絶望の地となったチェルノブイリが,皮肉にも鉄条網により絶滅危惧種の命を守る楽園となったのだ。


 ちなみに,著者の一人,石弘之氏は新聞社勤務を経て,国連環境計画上急顧問,ザンビア特命全権大使などを歴任されている。もう一人の著者の石紀美子氏は弘之氏の長女で,サラエボの国連機関に勤務して戦後復興プロジェクトに従事された経験を持つ方である。

(2013/07/02)

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