流れとかたち ー万物のデザインを決める新たな物理法則ー★★★
(エイドリアン・べジャン & ペダー・ゼイン,紀伊國屋書店)


 この書は間違いなく偉大な書だ。そして、本書が提唱するコンストラクタル法則(constructal law)は間違いなく偉大な法則となるだろう。

 偉大な法則、偉大な思想とは何か。それは世界の見方、捉え方を根本から変えてしまうものだ。それまでの世の中は混沌として訳がわからず、無秩序にしか見えなかったのに、新しい理論や法則が提案された途端、世界をクリアで見通しの良いものに変わり、混沌ではなく秩序が支配する世界に変貌する。


 例えばダーウィンの進化論がそうだ。進化論以前の世界では、世界には多種多様な生き物がいることはわかるが、なぜそれほど多くの生き物がいるのか、なぜこれまで多種多様でなければいけないのかは誰にもわからず、生き物の世界は理由なき混沌状態に見えていた。

 しかし、そこにダーウィンは「進化」という概念を導入した。最初は種類が少なかった生き物たちが、環境の違いによって次第に異なるものに変化していく。その結果、わずかな環境の違いが異なった生物を生み出していく。かくしてこの世界は多種多様な生き物で満たされた。このダーウィンの理論により、生物の世界に秩序と方向性がもたらされ、一つの法則で全てが説明できるようになった。同時に進化論は、人間は動物の一種であり、特別な存在でもなければ選ばれし存在でもないと高らかに宣言した。要するに、ダーウィンの進化論は「人間」という概念そのものも変えたのだ。


 同様に、ニュートン以前の天文学は混沌の極みだった。天動説で地球を宇宙の中心に据えたものの,地球の周りを回っている太陽や月や火星がなぜ別々の動きをし、しかも再現性も法則性も見いだせないのか、誰にも説明ができなかったからだ。しかしそれでも人間は,天体の動きを何とか説明できないかと悪戦苦闘し,幾つもの理論が生まれた。その結果、天体の動きを説明する天球儀はどんどん複雑になり、それどころか,新たな観測結果が加わるたびに,天球儀はますます複雑怪奇になっていていき,宇宙は混乱と混沌が支配するものになった。

 しかし,コペルニクスやガリレオ,ケプラーは地球ではなく太陽を中心とすれば,観測結果をよりシンプルに説明できることに気がつく。とは言っても,彼らは「天体の軌道は真円のはずだ」という先入観に囚われたりしたため,彼らが作成した天球儀は天動説の天球儀同様,複雑怪奇なものだったが・・・。

 全てを解決したのはニュートンだった。彼は「2つの物体に働く力」という点からケプラーの法則を見直し,その結果,万有引力の法則を見出し,これが地動説の最終勝利宣言となった。このシンプルな方程式は,リンゴにも月にも単一の法則に従って運動していることを示し,地球は火星や木星と同じ惑星の一つに過ぎず,特殊な天体ではないことを明らかにした。それどころか,太陽ですら特殊な存在ではなくなった。ニュートン方程式はその汎用性から,「宇宙の中心は何か」という概念どころか,その「中心」自体を吹き飛ばしてしまったのだ。


 そして今、私達の目の前にコンストラクタル法則が提案された。この法則は「有限大の流動系が時の流れの中で存続する(生きる)ためには,その系の配置は,中を通過する流れを良くするように進化しなくてはならない」と極めてシンプルであり、その意味するところは明晰で一点の曇りもない。「流れ」という概念(本法則で言う「流れ」とは物質の流動だけでなく、質量、エネルギー、情報、知識などの非物質も含む)さえ理解できれば、おそらく中学生でも、場合によったら小学生でも理解できるほど単純明快だ。単純明快さと厳密性という点で,コンストラクタル法則は熱力学第一法則、第二法則に匹敵する。コンストラクタル法則は熱力学第二法則は互いを補完し合いながら、宇宙の全てを記述し、その根本法則を明らかにする。

 しかも、この法則が成立する応用範囲は極めて広い。河川の形、血管系の形、呼吸器系の形、道路網の形、大学の教育研究システムの階層制、軍隊の指揮命令系統、統治機構、海に浮かぶ氷山の形と動き、樹木の構造、森林の構造、動物の運動、人間が作ってきた動力機関・・・など、森羅万象を一つの原理で見事に、そしてほぼ完璧に説明してしまう。コンストラクタル法則の前では生命と非生命(=物質)の違いすら本質的なものではなくなってしまう。それどころか、生命体と、人間が作り上げてきた社会のシステムや機械の垣根もなくなり、人間は機械と一体化して進化する「もの」になる。しかも、この法則の前では「進化」という概念すらそれ以前とは異なった意味を持つようになるのだ。


 さらに,コンストラクタル法則のすごいところは「未来の予測」が可能であることだ。ダーウィンの進化論は「なぜこの生物はこのように進化したのか」という過去の出来事を説明してくれるが、将来どのような生物が生まれるかまでは予想できない。進化論は本質的に偶然性から逃れられない理論だからだ。これは何も進化論に限ったことではなく、フラクタル理論、複雑系理論、ネットワーク理論、カオス理論、冪乗則(相対成長スケーリング理論)でも同様で、過去と現在については説明できるが、将来の予測は度の理論でも不可能だ。これらはあくまでも、観察結果・測定結果をまとめて理論化・法則化しただけだからだ。

 しかし、コンストラクタル法則は「それは将来、流れを良くする方向に変化(進化)していく」と予測する。しかも「流れが良い」とは明確な物理現象であり、物理学と数式で表現できるのだ。そして実際に,物理学と数学が予測する方向にデザインは変化していく。


 そして同時に、コンストラクタル法則は「水を泳ぐもの」⇒「陸を駆けるもの」⇒「空を飛ぶもの」と進化した理由も、四足歩行から二足歩行になった理由も明確にする。人間の二足歩行は擬似的車輪運動であり、質量を移動させるのに理想的な運動様式なのだという。

 また,この法則は「黄金比はなぜ美しいのか?」という難問にも鮮やかな謎解きを提示する。人間の視覚の形状と,視線の横方向の速度(=高速の長距離の移動)と縦方向の速度(=低速の近距離の移動)が,1:1.4 という比率を生み出し,それが黄金比という概念となったのだ。だから人間の目と大脳には「黄金比は心地よい」のだ。一つの画面から全情報を弾いだす際に,最も効率的な「均衡」を持っているのが黄金比で描かれた画面なのだ。


 ちなみに,先日たまたま書店で『空港まで1時間は遠すぎる!?』という本を見つけたが,これはまさに,コンストラクタル法則の実例だ。「移動には、遅い近距離の移動と,速い遠距離の移動があり、両者の均衡が重要」という理論から説明できるからだ。飛行時間(=速い遠距離の移動)がいくら短くても,空港へのアクセス(遅い近距離の移動)が悪い場合(空港が市街地から遠い,空港へのアクセス鉄道がない),その空港を使うメリットはなくなり,他の交通手段に客は流れていく(例:秋田空港,広島空港)


 ふと思ったが,研究者(人間,と言い換えてもいいと思うが)には二つのタイプがあるのではないだろうか。一つは「違いを見つけ出すのが得意/違いが気になる」タイプ,もうひとつは「共通性を見つけるのが得意/少々の違いは気にしない」タイプだ。

 前者は例えば,水辺にいるユスリカを研究していて,「この二種類,似ているんだけどなんだか違うんだよね」と微細な差異に気が付き,片方にエリユスリカ,もう片方にオオヤマユスリカと命名し,両者の生活史や繁殖行動の違いを研究することになる。
 一方,後者は,「ゴキブリとチョウとカブトムシとクモとサソリを並べると,何となくゴキブリとチョウとカブトムシは似ていて,クモやサソリとは違っている気がするんだよなぁ」という発想が浮かび,そこから「節足動物」とか「昆虫」という大分類が誕生するわけだ。
 そして多分,前者のタイプの研究者は科学の精緻化に寄与し,後者は大理論,統一理論を作る方向で寄与する。科学の進歩には前者だけでも後者だけでもだめで,恐らく,「多数の前者,少数の後者」の組み合わせで進歩していくのだろう。

 そしてこれもまたコンストラクタル法則だ。前者が「低速の近距離の移動」,後者が「高速の遠距離の移動」に相当する。河川が多数の支流からなり,本流は1本であるように,あるいは,樹木は多数の枝と1本の幹からなるように,前者のタイプの研究者は多数必要で,後者のタイプの研究者は少数で十分なのだろう。

(2013/10/23)

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