エディアカラ紀・カンブリア紀の生物★★(土屋健,技術評論社)
オルドビス紀・シルル紀の生物★★(土屋健,技術評論社)
<生きた化石>生命40億年史★★(リチャード・フォーティ,筑摩選書)


 私の部屋のテーブルには直径5センチほどのストロマトライトの化石が置いてある。32億年前に地球に登場したシアノバクテリアが作り出した構造物の化石だ。この3冊の本を読みながら,私は何度もこの化石を手にとって自分自身に質問した。「生物の本質は変化なのか,変化しないことなのか」・・・と。


 ストロマトライトは「同心円状の石」という意味で,私が持っているものは25億年くらい前のものらしい。シアノバクテリアは砂や泥の上に定着して日中は光合成を行い,夜間は表面の堆積物を粘液で固める。そしてシアノバクテリアは分裂して上方(太陽の方向)に積み重なっていく。その結果,シアノバクテリアの死骸(正確に言えば,太陽光が届かなくなって分裂を停止した個体だろう)と堆積物がドーム状に積み重なって高くなっていく。これがストロマトライトだ。成長のスピードは遅く,1年で数mm程度らしい。私が持っているストロマトライトは直径5センチ位だから,数十年かけてこのサイズになったのだろう。

 シアノバクテリアはその後,植物細胞の中に入り込んで細胞内共生を始め,やがてそれは葉緑素となった。このシアノバクテリアが地球上に誕生しなければ,地球に酸素が生じることはなく,大気は40億年前と同様,硫黄と二酸化炭素を主成分としたままで変わらなかったはずだ。そして恐らく,金星と火星の中間のような世界になり,そういう地球に棲める生命体は原核生物(=真正細菌と古細菌)だけだったはずだ。
 そう考えると,この25億年前のストロマトライトは神々しささえ感じる。今,私が今生きているのは,32億前にシアノバクテリアが誕生して光合成を始めてくれたおかげなのだ。私が手に持っているストロマトライトはまさに,その当時の様子を今に伝えるものだ。

 そのシアノバクテリア(藍藻類)は現在も地球のあらゆるところに生きているし,オーストラリアのシャーク湾に行けば,シアノバクテリアがストロマトライトを形成しながら光合成を行っている様子が見られる。恐らくシアノバクテリアは地球に誕生して以来,32億年間,変化することなくシアノバクテリアであり続けてきたことになる。『<生きた化石>生命40億年史』の言い方を借りれば,地球で最も長時間を走り続けている長距離ランナーだ。

 そして,シアノバクテリアは3度の全球凍結に耐え,エディアカラ紀末の大絶滅もペルム紀末の大絶滅もくぐり抜けてきたのだ。三葉虫や腕足類や恐竜の栄枯衰勢と無関係に,太陽の光で淡々と光合成をしては静かに酸素を放出し続けてきたのがシアノバクテリアだ。


 では,なぜシアノバクテリアは変化も進化もしなかったのだろうか(もちろん,32億年間,細菌としての形態は変化していないが代謝は変化している可能性はあるが)。もちろん,進化しなくてもシアノバクテリアのままで生きていけるからである。
 しかし,これが正しいのであれば,なぜ真核生物が生まれたのだろうか。何もわざわざ,真核生物という面倒くさいシステムを作り上げ,永遠の命を捨てて(細菌には寿命とか死という概念がない),個体の死を受け入れるしかない生き方を選んだのだろうか。細菌のままで生きていけるのに,なぜそれを捨てて変化したのだろうか。

 カギムシはカンブリア紀のハルキゲニアそっくりの形のままで今でもニュージーランドの落ち葉の下をゆっくり動いているし,イチョウはペルム紀の化石と寸分たがわない形態のまま日本中で生きている。
 シャミセンガイは日本のあちこちで生息していて有明などでは食用にされているが,貝(軟体動物)ではなく腕足動物だ。そして腕足動物はオルドビス紀に絶頂期を迎えて巨大化し,生態系の頂点に立っていた動物だった。シャミセンガイはいわば,オルドビス紀の腕足動物の唯一の生き残りだ。
 ナメクジウオもカンブリア紀のピカイアそっくりの形態のまま今でも生きている。彼らは数億年間,変化せずに生き延びてきた。


 これらの「生きた化石」は,数億年間,生息環境が途切れずに保たれからこそ,現在も昔のまま生きている。だから,カギムシもナメクジウオもシャミセンガイも,それぞれの生息地の環境が変わってしまえばあっけなく絶滅する。生物の生存は一にも二にも環境にかかっているのだ。

 だから,シアノバクテリアが酸素を作り始めて数億年後に海水の酸素濃度が上昇するようになると(それまでは,シアノバクテリアが放出した酸素は主に,海水中の還元鉄の酸化に消費された),嫌気性菌は次第に生息地を失って極限環境に逃げるしかなかった。そして酸素の豊富な海水では好気性菌が繁栄した。


 ではなぜ,嫌気性菌は好気性呼吸に適応しなかったのだろうか。シアノバクテリアが登場してから酸素濃度が上昇するまで数億年の猶予期間があったのだから,その間にゆっくりと好気性代謝に切り替えても良さそうなものだ。だが,多くの細菌は環境の変化に合わせて好気性代謝に乗り換えることはせず,酸素のない環境に逃げこむことを選択した。

 では,どういう細菌が好気性代謝に切り替えられたのだろうか。恐らく,嫌気性菌の一部にはもともと好気性代謝ができるものがいて,それが「酸素時代」のエースになったのではないだろうか。つまり,もともと好気性代謝の能力も持っていたから,酸素という新しい環境に適応できた,という解釈だ。

 だが,なぜ酸素のない時代に好気性代謝能力を持っていたのだろうか。なぜなら,その能力は数億年間,使い道がない無駄能力だったからだ。なぜ,使い道のない能力を捨てなかったのだろうか。無駄能力を捨てて身軽にならなかったのだろうか。


 これは他の生命進化にも言えることだろう。環境が変化するということは,それまでの地球になかった新しい環境が生まれるということと同義だ。だから,新環境に適応できない生物は絶滅し,新環境でも生きていける能力のある生物がその地の王になる。
 では,その「新環境に適応する能力がある」生物は,いつからその能力を持っていたのだろうか。もちろん,環境変化以前から持っていたはずだ。環境が変化してから能力を獲得しようとしても間に合わないはずだ。彼らは,「使い道のない能力を持っていた」が故に,新しい環境で生きられたのだ。

 潜在能力を持っている,といえば格好良いが,使い道がないことには変わりはない。例えて言えば,熱帯での暖房器具,iPhoneにインストールされたAndroidアプリと同じだ。これらは使い道がなく邪魔でしかない。


 ここで,最初の疑問に戻る。生物の本質は変化することなのか,変化しないことなのか。


 私の解釈では,生命は基本的に「変化を嫌う」ものだ。地球の歴史では数億年レベルで見ると環境は大きく変動しているが,数万年とか数十万年のスパンでは変化せずに定常状態を保っているからだ。だから生物も基本的に変化する必要はないし,変化する能力を持っていなくても生きていけるし,変化は生きる上では不要なものだ。

 これは同一生物種を形成する個体にも言えて,ほとんどの個体は「変化を嫌う」。「変化を嫌う」個体のほうが安定した環境下では生き延びる確率が高いからだ。

 だが,一部の個体(あるいは遺伝子)は「変化を好む」性質(能力)を持っているのではないかと想像(妄想とも言う)している。そういう連中が獲得するのが「今は使い道のない変な能力」,つまり赤道直下のダウンジャケットだ。
 全く使い道のない邪魔なだけのダウンジャケットだが,平均気温が下がればダウンジャケットを持っている連中しか生き残れない(逆に,更に平均気温が上がればダウンジャケットを着ている連中から先に死ぬわけだが)。そして,気温低下が長期間続けば「ダウンジャケットを着た個体」が増えていく。一方の「ダウンジャケットを着ていない個体」は温暖な地域に移動し,着た個体と着ていない個体は地理的に分離し,前者は新しい種として定着する。


 極めて恣意的で,感覚的で,見当外れで,科学的根拠のない仮説だと思うが,こんなことでも考えない限り,生命進化は説明できないような気がする。

(2014/03/03)

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