素粒子論はなぜわかりにくいのか★★★(吉田伸夫,技術評論社)


 こういう本にもっと早く出会いたかったと心底思った。素粒子論について学ぼうと一念発起した科学好きの素人にはこの本で必要十分だと思う。私はこれまでさまざまな素粒子論の入門書を読んだのに実は全く理解できなかったが,その理由が本書を読んでわかった。何の事はない,私の読解力が不足だったのではなく,それらの入門書自体がダメだったのだ。

 そして,書店の物理学コーナーに「素粒子論のダメ解説本」ばかり並んでいる理由も本書を読めばわかる。これらのダメ本の書き手は,本の読み手に素粒子論を理解してもらおうと書いたはずなのに,無意識のうちに自分の研究分野(超ひも理論とかヒッグス場とか)がどれほど素晴らしいかを語ってしまうのだ。その結果,素粒子論全体が見渡せないものになってしまい(素粒子論の中で超ひも理論が飛び抜けて素晴らしいと説明してしまうから),ヒッグス場に重点を置いて書いてある解説本と超ひも理論解説本では共通する部分が少なくなり,どちらも,何度読んでも要領を得ないのだ。


 しかも,1980年代以降は「超ひも理論にあらずんば素粒子論にあらず」的に大流行し,この分野の研究者は超ひも理論の研究者ばかりになった。最先端の分野には研究費がつきやすい,ということも絡んでいたらしい。その研究者たちが21世紀初頭から第一線から引退するようになり,彼らがこぞって超ひも理論の解説書を出版し,超ひも理論以外の素粒子論の解説書は書店で見かけることがなくなった。
 しかし,超ひも理論は数学的な処理ばかり先行し,現実的な裏付けを欠いている理論体系であり,いわば,それまでの素粒子論と隔絶した世界を作っている。だから,超ひも理論の解説書をいくら読んでも,その前の時代に書かれた素粒子論解説書と共通する部分が見つけられず,素粒子の世界全体を見渡すことが困難になる。
 しかし,超ひも理論の研究者にとっては超ひも理論のみが正しい理論だから,それ以外の素粒子論と断絶していることについては言及しない。

 そしてこれには,「派手でセンセーショナルな見出しをつけて研究成果を発表しなければ研究費が引き出せない」という問題も絡んでくる。この良い実例が「ヒッグス粒子は神の粒子であり,あらゆる物質に質量を与える」という説明だ。「神の粒子」という言葉を見ると,ありとあらゆる質量はヒッグス粒子が生み出しているように理解してしまうが,実は,原子の質量の99%はヒッグス粒子と無関係に決まっているのだ([質量]=[原子核内部に閉じ込められたエネルギー量]であり,質量とエネルギーは e=mc2 で等価だから)。確かに,クォークの質量を説明するにはヒッグス粒子を持ち出す必要があるが,陽子や中性子の質量はヒッグス粒子なしに説明できているのだ。

 また,「超対称性」とか「超ひも理論」などの「超」についても,「新しさや凄さを強調したい時に恣意的に使う接頭語で,特に深い意味はない」と明快に裏事情を説明しているのも嬉しい。通常,「超」は「超人ハルク」とか「超絶技巧練習曲」とか「超サイヤ人」という風に,「尋常でない強さ・能力」を表す場合に使うが,相対性に対する超相対性の違いは,サイヤ人と超サイヤ人の違い,ツェルニー練習曲と超絶技巧練習曲の違いではないらしい。しかし,そういう裏事情を知らない一般読者は,この「超」の文字に惑わされ(あるいは騙され),超ひも理論があらゆる物理現象の根底にあるスーパー理論であると誤解してしまう。
 どうやら,超ひも理論の「超」は,スーパーマーケットの「スーパー」みたいな接頭辞らしい。


 それにしても,本書の「場とは液晶画面の画素みたいなもの」,「場のエネルギー=バネ」というアナロジーの見事さには脱帽だ。少なくとも私は,このような明快な説明はこれまで読んだことがない(もちろん,これまで普通にされていた説明で,私だけが知らなかったという可能性はあるが)。目から鱗が落ちるとは,このような説明法だろう。

 実際,液晶画面は休みなく動画を表示しているが,画面を拡大していくと最後は一つ一つの画素になり,画素ごとに色や輝度といった「値」がめまぐるしく変化していることがわかる。これが素粒子論の「場」だ。変化しているのは「値」だけで,画素自体の位置は変化していない。

 説明の見事さはアナロジーの見事さと同義だと思う。誰もが知っている現象に置き換えることで,実際には目にすることができない物理現象でも,頭のなかで想像できるものに置き換えられる。優れた解説書とは秀逸なアナロジー満載の書であり,優れた書き手とは奇抜で意表をつくが的確なアナロジーの発明家でもあるのだ。


 そして本書はさらに,「場のエネルギー」をバネのモデルで説明する。読者にとっては液晶の画素をバネに置き換えるだけだからスムーズに理解できる。その上で,「個々のバネが相互に連結されている」というモデルに進み,「個々のバネの振動が横のバネに伝わり,それが広がっていく」というイメージで「波動」を説明する。恐らく,中学生でもきちんと理解できる説明であり比喩だと思う。

 そしてここには,「素粒子は粒子であり,かつ波である」というような曖昧で自己矛盾のある表現は一切ない。何しろ,「素粒子は粒子ではない」という最初に明言しているのだから。
 「素粒子は波であり粒子である」という説明がされるようになった経緯も,うまく説明されている。これは,20世紀初頭から連綿と続く原子物理,素粒子物理の歴史の遺物みたいなものなのだ。しかし,この説明が世に流布してしまったため,「素粒子は粒子でない」という正しい知識が一般に受け入れられなくなってしまったようだ。

 少なくとも,本書179ページからの「素粒子論はなぜわかりにくいのか?」の章だけでも読む価値がある。なぜ一般向けの素粒子論解説本が難解で理解不能なのか,解説本ごとに説明の仕方が異なっているのか,解説本を読めば読むほど知識が混沌としてくるのはなぜなのか・・・という疑問が一気に氷解するはずだ。全ては「恒星の周りを惑星が回るように,陽子の周りを電子が回っています」的な説明が諸悪の根源だったのだ。それが理解できただけでも,本書を読んだ甲斐があったというものだ。


 本書でも言及されているが,超ひも理論は現実の実験や観察とは無関係に作られた理論で,正しいことも証明できないし,間違っていることを証明することも不可能だ。「超ひも理論は間違っている」という反論や非難は全て論破しているが,正しいという証拠もないし,正しさを証明する実験も行えない,という袋小路に入り込んでいるようだ。
 要するに,これまでのような「自然現象の観察から法則性を見出し,それを法則として提示し,その法則から演繹される未知の現象を予想し,その予想を観測や実験で確認する」という手順が一切使えないからだ。

 これは何を意味しているかというと,超ひも理論が本当に正しいことが証明されれば次世代の物理学・科学の礎となって発展に寄与するが,正しくなかった場合には,1980年代から世界最高水準の理論物理学者を総動員してなされた超ひも理論の研究が全て無意味となってしまうことを意味するのだ。それはすなわち,この30年間が無意味であり,「失われた30年」であることになる。しかもその時点でも,素粒子論の研究者は超ひも理論の専門家が大多数を占めているのだ。これは悲喜劇というべきだろうか,二次被害というべきだろうか。

(2014/05/15)

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