百姓から見た戦国大名★★★ (黒田基樹,ちくま新書)


 司馬遼太郎の小説だったかエッセイの中に,「戦国時代と言っても戦争をしていたのは武士であり,農民は戦争に巻き込まれることはなく,農民にとっては平和で安全な時代だった。近くで戦争があると聞くと,農民は手弁当で集まって見物していたくらいだ」という一節があったと記憶している。これを初めて読んだ頃,昔の戦争は現代の戦争(私が同時代の戦争として知っているのは,ベトナム戦争と数回にわたる中東戦争などだ)と違ってのんびりしていたんだなぁ,と思ったものだった。またそれは,「やあやあ,遠からん者は音にも聞け,近くば寄って目にも見よ」とわざわざ敵に名乗りを挙げてから合戦を始める合戦物の講談にも合致していた。だから私は,のんびりと紳士的なのが戦国自体の合戦,程度に考えていた。

 だが,なんだか腑に落ちないのだ。いくら500年前の日本とはいえ,鉄砲はふんだんに行き渡っていたのだから,非戦闘員と言っても戦場近くにいたら流れ弾に当たることはあるだろうし,兵士も「ここは畑だから踏み荒らさないように」なんてことは言っていられないはずだ。敵に襲われて逃げる時は,畑だろうと田んぼだろうとお構いなしに逃げ回ったはずだ。司馬遼太郎が書くように「戦国時代の戦闘は農民とは無関係」というような戦争は本当にあったのだろうか。それは,見てきたような嘘ではないのだろうか。


 そして,いろいろなことを知るにつれ,司馬遼太郎の歴史小説は史実から程遠いし,戦国時代は江戸時代の講談とはかけ離れていたことがわかってきた。司馬遼太郎自身,「自分の書いているのは歴史小説であり,小説として面白くするためには史実をねじ曲げたり捏造するのは当たり前」程度に考えていたようだ。実際,坂本龍馬のように「藩の境界を超えて活動していた幕末人」は龍馬以外にもかなりいたし,龍馬だけが傑出した行動をしていたわけでもないらしい。要するに,司馬遼太郎が自身の歴史観を構築するために坂本龍馬という人物を発見し(実際,『龍馬が行く』が出版される前,坂本龍馬の名前を知っている日本人は幕末研究者以外にはいなかったらしい),偉大な人物として喧伝したもののようだ。ただ,そういう裏事情を知らずに,「司馬遼太郎は歴史書」と勘違いした人たちが増え,いつの間にか「新しい日本を作った偉人@坂本龍馬」となってしまったらしい。

 ちなみに,日本の戦乱の時代を描いた太平記や,戦闘の様子を取り上げた講談が作られたのは,日本列島から戦争がなくなった元禄時代以降である。江戸初期にはまだ戦争の記憶が生々しかったため,戦争を賛美するバカはいなかったが,元禄の頃になると戦争は過去のものとなり,戦闘・戦争を美化する人間が増えてきて,そういう時代の空気を読んで作られたのが太平記であり講談だったそうだ。同様に,実戦の場で相手を殺す手段としての「剣術」が,平和の時代になって,板敷きの滑らかな道場で行う「剣道」になったそうだ(板敷きのため剣道の基本は「すり足」になったが,凸凹と障害物がゴロゴロしている地面ではすり足ではうまく戦えない)


 さて,話を「武士と農民」に戻すと,司馬遼太郎の最大の間違いは,戦国時代の「武士と農民」を現代の「軍隊と非戦闘員」と同じだと誤解・錯覚していたことにあるようだ。

 実際には,戦国時代の農民は「農民であり戦闘要員」だったのだ。農民は自衛と略奪のための武器(刀や槍,鉄砲)を備えていたのだ(個人が自衛のために銃を所持しているどっかの合衆国みたいなものだ)。


 戦国時代前の日本列島は,「中世温暖期」と呼ばれる比較的温暖な時代が続き,人口も着実に増えてきた。しかし,14世紀半ばから19世紀半ばにかけての500年間,地球の北半球は小氷期と呼ばれる寒冷で気候変動幅の大きな時代に突入し,日本も例外ではなかった。そのため,日本列島は不作と飢饉が連続する時代に入る。これが戦国時代の背景だ。

 寒冷による不作と言っても,日本全体が同様に不作だったわけではなく,ちょっとした地形の差で不作を免れた村(地域)もあった。そして,飢饉に苦しむ村は,隣の「ちょっとだけ飢饉でなかった村」を武器を持って襲いかかっては,食料を奪ったり,川の水利権を奪ったり,入山権を取ろうとした。そうしないと生き延びられなかったからだ。そして,生存のための人殺しは仕方ないことであり,犯罪ではなかった。もちろん,襲われた村も黙って蹂躙されるわけはなく,武器を持って隣村を撃退することになる。これが日本列島のいたるところで日常的に繰り広げられていた。村単位の争いの恒常化が,室町時代後半から日本列島の個々賢で頻発した。これが「戦国時代」という時代の通奏低音であり基本構造だ。

 だが,いくら生存に必要な争いといっても,それが際限なく続いてはどちらの村も疲弊し最後は共倒れだ。そこで村々は「領主」,さらに「大名」という第三項を設定したのだ。要するに,すべての村から等距離にある領主,全ての領主から等距離にある大名を立て,それに司法権を委ねたわけだ。このようにして誕生したのが「戦国大名」だったようだ。


 戦国大名の北条氏が領国をどのように経営していたかは本書で詳しく説明されているが(というか,数ある戦国大名で領国経営・管理の具体的内容が資料として残っているのは北条氏のみらしい),百姓あっての領国,村あっての領国,という意識が徹底されていたことは感動的だ。戦国大名の北条氏と,領内の村々との関係は上意下達の一方的支配関係ではなく,北条氏は村々の安全を守る義務を負い,その義務を北条氏が実行している限りにおいて村々は税金を払い,司法権を委ねたのだ。そのために,北条氏は目安制を制定し,個々の村の大名への直接請求権を制度として認め,告発のあった行政担当官の不正を正したのだ。そして,戦国大名がそのような「村に対する義務」を果たせなくなった時,村は簡単に寝返って新しい領主・大名と契約を結ぶことになる。


 戦国大名同士の合戦が戦国時代だ,というのがこれまでの歴史教育だと思うが,本書はそれに公然と異を唱えるものだ。本書で描くのは,個々の村が生き残りをかけてお互いに戦闘し,その戦闘の中でお互いが生き延びる道を模索し,それをシステム化していく過程で戦国大名という「第三項」を創り上げていったという,ダイナミックな世界だ。

 それはいわば,室町幕府というシステムに対する「上からの改革」ではなく「底辺からの改革」だ。そしてそれは,小氷期という日本人がそれまで体験したことのない過酷な世界を生き延びるための「社会システムの巨大転換」だったと言える。あるいは,小氷期という時代に適応するためには,社会全体のパラダイムシフト的変革が必要だった,と考えるべきかもしれない。

(2014/08/05)

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