土の文明史★★★(デイビッド・モントゴメリー,築地書房)
農耕開始直前の時代から現代までの人類の歴史を「土」という一つの視点で俯瞰し読み解いていく類まれなる良書。詳細にして膨大なデータの塊であり,ものすごい本です。下手なレビューをしても意味がないので,本書に書かれている内容を箇条書きで紹介します(・・・ってのは,手抜きレビューである体の良い言い訳だな)。例えば,最初の方で印象に残っている文章は次の通りです。
- 土地が支えられる以上に養うべき人間が増えた時,社会的政治的紛争が繰り返され,社会を衰退させた。
- 作物の遺伝子操作と化学肥料による土壌の生産力維持で,コムギ,コメ,トウモロコシ,オオムギは地球上で最も優勢な植物となった。かつてはまれな植物であったこの4種は,現在5億ヘクタール以上を覆う大規模な単一種の植生として栽培されている。
- 多くの文明の歴史は共通の筋をたどっている。最初,肥沃な谷床での農業によって人口が増え,それがある点に達すると傾斜地での耕作に頼るようになる。(中略)急速な斜面の土壌侵食が起きる。その後の数世紀で農業はますます集約化し,そのために養分不足や土壌の喪失が発生。やがて土壌劣化によって,農業生産力が急増する人口を支えるには不十分となり,文明全体が破綻へと向かう。
- 土壌とは地質学と生物学が出会う場所だ
- わかっている最初の半農耕民は,ザグロス山脈の山腹に紀元前1万1000〜9000年前に住んでいた。(中略)季節的な狩猟キャンプと洞窟を広く利用していた。紀元前7500年には,常食を支えるものが狩猟採取から放牧と農耕にとって変わり,その頃には狩猟は食料のわずか5%を占めるのみになっていた。
- 計画的に穀類の耕作が行われた最初期の証拠は,現在のシリアにあるユーフラテス川源流のアブ・フレイラから見つかっている。
- 農耕へと転換すれば,食物1カロリーを生産するのに必要な時間と労力は増加する。
- 恐らく,新ドリヤス期の急激な気候変動のせいで,資源ベースを失いつつあった半定住民農業を試さざるを得なくなったのだろう。
- 紀元前9000年から7500年にかけてのナトゥフ文化は,野生の穀物の栽培とヤギとガゼルの放牧を基盤としていた。植物も動物も完全には栽培品種化・家畜化されていなかったが,この時代の終わりには狩猟は食料供給のごく一部を占めるのみだった。
- 環境からより多く食料を得ることができる集団は,ストレスの期間(例:旱魃や低温)をよりうまく切り抜けることができた。苦しい時期が来ると,畑仕事の経験がある集団の方が有利だった。そうした集団はより苦境に耐え,順調なときには繁栄した。
- 鋤が発達すると,牛は農地で働き,肥料を与えた。動物の労働力を動員すると農業生産性は高まり,人口は飛躍的に増大。(中略)鋤の発明は文明に革命をもたらし,地球の表面を変貌させた。
- 紀元前5000年頃には中東にある乾燥地農業に適した土地はほぼすべて利用されていた。(中略)これが今度は,土地からより多く食糧を搾り取ろうとする圧力を高めた。(中略)紀元前6000年ころにはヨルダン中部のすべての村が放棄された。
- 十分な雨がふらない周辺地域を耕作する必要に迫られて,農法に大きな革命が起きた。灌漑農業だ。
- メソポタミアの良好で肥沃な土地は,紀元前4500年には全て耕作されていた。農耕が海岸に達するとそれ以上何処にも拡張しようがなかった。新しい土地を使い果たしてしまうと,食糧を増産して人口増加に対応するための苦闘は激化の一途をたどった。
- 食べるために全員が畑仕事をせずとも良くなれば,階級区分ができ始める。食糧と資源の分配を司る宗教的政治的階級の出現は,農民から食糧を集めて社会の他の階層に再分配する行政機関の発達につながる。
- メソポタミアの農地を潤す灌漑には隠れた危険があった。半乾燥地帯の地下水は通常多量の溶解塩を含んでいる。
- シュメールの農業の主な問題は,川の増水のタイミングと作物の栽培期が一致しないこと。
- 紀元前1800年には収穫量は当初の1/3にまで低下し,メソポタミア南部はバビロニア帝国の貧しい片田舎に落ちぶれた。
- ナイル川の氾濫原は持続的な農業に理想的だった。
- 農耕社会の一つの共通点は,人口の大多数が不作に対する防御策をほとんど,あるいは全く取らずに収穫から収穫までを暮らしていたことだ。一般に豊作が人口規模を決めるので,不作の時には窮乏が避けられない。
- ギリシアで土壌侵食が土壌生成を上回ったのは鋤が導入されてから。
- 紀元前500年ころから鉄が広く使用されるようになった。青銅よりも豊富で安価な鉄は,固く,耐久性があり,木製の柄に取り付けられるように加工するのが簡単だった。(中略)下層土まで掘り下げるようになった。(中略)牛と鋤の利用は労力を省いたが,一世帯を養うのに二倍の土地が必要だった。鋤の使用が一般的になるにつれ,土地の需要は人口よりも速く増えた。
- 春夏の豪雨が裸の農地からの土壌侵食を増加させる地中海とは違い,西ヨーロッパの穏やかな夏の雨と冬から春にかけての積雪は,耕すと極めて侵食されやすいレスの土壌の侵食を抑えた。
- 紀元前3400年頃には,生存のための狩猟は中央ヨーロッパ一帯で過去のものとなっていた。
- 18世紀初頭の収穫量は中世の水準と比べてそれほど多くはなく,農業生産量の増加は農法の改善よりもむしろ耕作面積の拡大によるものであった。
- 18世紀,人口が増大するにつれヨーロッパ人の食事は貧弱になっている。(中略)ヨーロッパ人は次第に野菜,粥,パンを常食とするようになっていった。(中略)肉を食べることは上流階級の特権になった。19世紀初め,ほとんどのヨーロッパ人は一日2000カロリー以下で生きていた。畑を懸命に耕すヨーロッパの農民は,週に3日働くだけのカラハリ砂漠のブッシュマンよりも食べられなくなったのだ。
また,最終章の次の文章は「化学と遺伝学の医学ではなく,生物学と生態学に基づく湿潤治療」という考えに通じるものがあります。
- 新しい農業の哲学的原理は,土壌を化学システムとしてでなく,地域に適応した生物システムとして扱うことである。(中略)農業生態学は化学と遺伝学ではなく生物学と生態学に基づいている。
- 土壌を工場としてではなく生命系としてみるべきだ。
これら以外にも次のような情報が満載です。
- 南北戦争直前の南部の経済を支えていたのは『奴隷の繁殖』だった
- アイルランドのジャガイモ飢饉の最盛期でも,アイルランドからイングランドに大量の牛肉が輸出されていた
- タバコは,代表的な食用作物の10倍以上の窒素と30倍以上のリンを土壌から奪う。(中略)バージニアは表土をタバコに変える工場になった。
- 我々は陸地面積の1/10強の土地を作物生産に利用し,さらに1/4の地面を放牧に使っているが,いずれの適地もほとんど残っていない。農業に利用できる残されたほとんど唯一の場所は熱帯林だが,そこは薄く侵食されやすい土壌がごく短い間しか農業を支えることができない。
- 緑の革命がより多くの人口を支えるようになっても,大部分の人々はいまだに飢餓すれすれで生活していた。食料生産の増加は,貧しい者たちがより多くの食べ物を手に入れられることを意味しない。それはたいてい食糧を与えるべき人間が増えるということだ。
- 緑の革命は,現代農業が依存する利益の大きな化学製品の世界市場を創りだすと同時に,この依存の道を選んだ国が現実的に方向転換することをほとんど不可能にした。個人の場合,このような行動を心理学者は依存症と呼ぶ。
(2014/09/01)
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