不潔の歴史 The Dirt on Clean★★(キャスリン・アシェンバーグ,原書房)


 「清潔・不潔という概念から読み解く文明史」という視点が極めてユニークであり,膨大な資料から時代ごとの清潔観(不潔観)についての意識や考え方を見事に浮かび上がらせ,なおかつ,時代ごとの変化の理由を明快に述べていて,非常に面白かった。ゼンメルワイスやリスターの業績も紹介されているし,コッホやパスツールの研究と細菌学の確立,なんてあたりもきちんと説明されている。


 医学的に面白かったのは,中世のペスト禍で入浴恐怖症が生まれ,それが,ペストが発生しなくなっても人々の意識に染み込んでいて,瘴気説と結びつくことで,「垢で皮膚を塞いでしまえば病気が皮膚の孔から入らなくなる」という「常識」が生まれた,という部分。そして,コッホらの研究が世に知られるようになっても,まだ古い瘴気説が人々の意識から消えなかった,という部分だ。やはり,パラダイムシフトは世代交代でしか完成しないことがよくわかる。


 また,19世紀後半のアメリカで頭角を現してきた広告代理業と石鹸製造業が,互いに手を取り合って進化し,それまで体を洗う習慣のなかったアメリカに,「石鹸で洗わないとにおう」「石鹸で清潔にすると美しくなれる」とキャンペーンを打ち,やがて石鹸業界は広告代理店にとって最大の顧客になった,というあたりも非常に興味深かった。あの P&G は植物油から石鹸を作って商品化した最初のメーカーだったが,「アイヴォリー」という印象的な名前で売りだしたからこそヒットした,というのもさもありなん。

 また,さまざまな石鹸製造業者が石鹸を販売し始めるが,所詮,石鹸は石鹸なので,「どのブランドもあまり区別がつかなかったので,なおさらメーカーには自社ブランドの商品がいかに優れているかを宣伝する必要があった」という指摘も興味深い。違いがないからこそ,メーカーはブランドイメージを作ろうと躍起になり,広告代理店側は「有名人の推薦,プレゼント,賞品,キャッチーな言葉,音やキャクター設定」という様々な手法を編み出しては,それがどれほど有効かを石鹸宣伝という場で実験し売るためにどういう戦略が有効かが明らかになっていったらしい。そこで開発された宣伝手法がどれほど効果的だったかは,それほとんどが今日でも踏襲されていることからもわかる。

 同様に,19世紀後半までヨーロッパ人もアメリカ人も入浴する習慣がなかったのに,なぜアメリカだけが清潔大国・不潔差別国に突っ走った理由は複合的でたまたまの部分も大きい,という分析がこれまた面白い。ヨーロッパとアメリカでの建物事情の違い,民主主義国家アメリカだから起こってしまった使用人不足,南北戦争での「清潔は戦死者を減らすた」という成功体験などがないまぜになって,アメリカ人は「石鹸と入力による清潔」を受け入れていったのだ。

 そしてアメリカでは,洗口剤やデオドラント剤といった,新しい「清潔商品」が次々に開発されては,超売れ筋商品になっていく。その手口は実に見事だ。マスコミのコマーシャルを通して「あなたの〇〇は▼▼かもしれない」と宣伝し,それまで異常とはみなされなかったものを「恥ずかしい異常」と断罪し,それに対する恐怖心を作り出すのだ。あとは,その恐怖心に駆られた大衆がドラッグストアに押し寄せるのを待つだけだ。実に巧妙な手口であり,インチキ宗教が信者に安物の壺を「霊験あらたかな壺」と高額で購入させるのと同じテクニックである。見事な商売である。

 そして現在,アメリカ人は「体臭を完全に消さなければ社会からはじき出される」という強迫観念に囚われ,ついには,「歯を完璧に白くする」漂白剤入りシートが一大産業となっているらしい。これには歯科医から「痩せても痩せても,まだ太っていると考える拒食症患者と同じ」,という指摘がされているそうだ。そのうち彼らが,「歯をすべて抜いて,真っ白な人工の歯を入れるが健康的」と言い出す日も遠くないかもしれない。
 ちなみに,本来の健康な歯は白ではなく黄ばんだ色をしているそうだ。


 と,ここまでは絶賛モードだが,以下,本の書き手,書評家という立場から,本書の問題点を挙げていくことにする。


 本書は要するに「欧米文化における不潔の歴史」,あるいは「キリスト教国における不潔の歴史」であり,話はキリスト教文化に限定される。それはそれでいいのだが,最初の章で「キリスト教のように清潔をおざなりにする宗教は,世界中見渡しても変わっている」と書いてあるが,比較対象としているのはユダヤ教だけなのだ。「世界中見渡しても」というのであれば,イスラム教,東南アジアの多神教,先住民族の宗教まで例に出すべきだと思うし,そうすることで,「清潔・不潔の概念は,その文化が生まれた自然環境と資源によって決まり,人類に普遍的な概念ではない」というような結論が導き出せたたかもしれないし,より視野の広い本になったと思う。

 それと,本書は「はじめに」以下,9つの章に分かれているが,各章に区切りがなく,だらだらと文章が続いていく形式になっている。さすがにこれは読みにくい。小見出しをつけるべきだったと思う。

 おまけに,膨大な引用部分(=資料・文献からのコピペ)と,著者の考察部分が明確に書き分けられていないため,何が結論かがちょっとわかりにくい。せめて,引用部分の段落だけ字下げをするとかの工夫すべきだろう。

 私が編集者だったら,各章を内容のまとまりごとに小見出しをつけ,どういう内容なのかを小見出しで明示し,さらに,引用部分と考察部分をひと目で見分けられるようにしたと思う。

 さらに,翻訳がちょっと下手。一般向けの科学書・歴史書なのに,やけにくだけた口語調文章が多いのだ(もちろん,原文自体がくだけた英語を多用しているのかもしれないが)。さらに,文意がわかりにくい文章も少なくない。私が編集者だったら,このあたりはうるさくチェックを入れていたと思う。少なくとも,もうちょっと日本語に注意を払っても良かったんじゃないだろうか。


 本書を読み終えて,一番印象に残のは,清潔信仰が強迫観念となって「不健康になってもいいから清潔!」路線を視野狭窄的に突っ走る現代アメリカ社会と,「清潔,清潔と一心不乱に唱えるのはバカみたい。もうちょっと肩の力を抜いて現実を直視しようよ」路線の現代フランス社会との対比だ。

 このあたりは「安全と危険」の関係と同じ。「危険」な状態は極めて具体的だが,「安全」とは常に「危険でない」という否定形でしか定義できないからだ。なぜなら,「危険」の種は無数にあるため,いくつかの「危険の原因」が除去できたとしても,それではまだ「安全」とはいえないのだ。だから「安全」とはいつまでたっても手が届かない青い鳥だ。同様に,「不潔」を引き起こす原因は無数にあり,いくら「不潔の原因」を除去したとしても,それは「清潔になった」証明にはならない。要するに,「不潔」は極めて現実的で具体的だが,「清潔」は観念的な概念でしかなく,いくら追い求めても絶対に手が届かない非現実的な理想だ。y=1/x の曲線はゼロに限りなく近づくが,絶対にゼロにならないのと同じだ。


 ここで,医学の世界を考えてみる。世界の感染症対策の基準を決めているのはアメリカ医学だ。では,その基準を決めている人たちが,アメリカ的な強迫観念症患者ではないと言い切れるのだろうか。皮膚常在菌も通過菌も病原菌も,一緒くたに「細菌」と考えている清潔バカが,もしかしたら感染症対策のガイドラインを決めていないのだろうか。そんな思いが脳裏をよぎってしまう。

(2015/01/19)

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