ワーグナー(1813〜1883年)の楽劇『ニーベルングの指環』は4つの部分(「ラインの黄金」,「ワルキューレ」,「ジークフリート」,「神々の黄昏」)からなる作品で,全てを上演すると15時間かかる長大にして巨大な作品である。
その2番目が「ワルキューレ」で,その第3幕の序曲(前奏曲)がこの「ワルキューレの騎行」だ。昔から非常に人気の高い曲だが,映画『地獄の黙示録』で使われたことから,クラシック音楽を知らない人でもこのメロディーは知っていると思う。
⇒【YouTube】
ワグナーの楽劇は主人公とか自然現象などを表す「ライトモチーフ」を組み合わせて「ライトモチーフでストーリーを語る」という感じの手法で作られていて,「ワルキューレの騎行」では次の3つのモチーフから構成されている。
天空のライトモチーフ | |
騎行のライトモチーフ | |
ワルキューレのライトモチーフ |
そしてさらに
「ワルキューレの騎行」のピアノソロ用編曲は有名・無名を含めると10曲くらいありそうだが,演奏会で取り上げられるものとしては,Brassin編曲,Tausig編曲,Hutcheson編曲の3つくらいだと思う。どれも演奏の難易度が高く,ド派手な演奏効果を持ち,弾きごたえがあり,弾きこなした時の高揚感はまさにランナーズ・ハイ状態である。一応私は3曲とも弾いたことがあるので(「弾いたことがある」と「弾きこなせる」の差は大きいが),演奏する側から3編曲について説明することにする。
次は実際の演奏例(YouTube)。
Louis Brassin(1840〜1884年)はドイツ生まれのベルギーのピアニストで,自作のピアノ曲も10数曲書いているが,現時点で作品として残っているのはいずれも編曲作品。中でもワグナーを元にした編曲(「ワルハラ」,「ジークムントの愛の歌」,「魔の炎の音楽」など)やバッハの「トッカータとフーガ ニ短調」は編曲マニアには有名。
「ワルキューレの騎行」では「ワルキューレのライトモチーフ」と「騎行のライトモチーフ」をほぼ原曲の通りに扱い,それに「下降アルペジオ」と「上昇スケール」を休みなく絡ませる,という方針でアレンジしている。また,「天空のライトモチーフ」は「ワルキューレのサイトモチーフ」の導入部分だけに登場し,原曲で絶えず聞こえるトリル音形は完全に無視している。
研ぎ澄ました刃のような切れ味の編曲で,鍵盤を広く駆けまわる右手のパッセージは爽快そのもの。まさに「格好いいピアノ曲」である。
ワグナーの原曲を最も尊重した編曲であり,ワグナーの楽譜に書かれていない音は極力入れない,というスタンスで編曲されているようで,一言で言えば「端正」なアレンジである。反面,Tausig(タウジッヒ)編曲と弾き比べると,ハッタリというか,ケレン味に欠けるというか,ちょっとおとなしい感じがしないでもない。
演奏の難易度はもちろん高いが,ムチャクチャ難しい超絶技巧曲ではなく,指使いをきちんと工夫すれば手に馴染む曲である。演奏技巧は人間工学的に理に適ったものであり,ショパンの「バラード」や「幻想曲」が弾ける人なら絶対に弾けるはず。ただ,「ワルキューレのライトモチーフ」を両手で交互に演奏する部分は1小節ごとに右手のパッセージが変化するため,暗譜するのは一苦労だった。
ちなみに,同じようなフレーズ,同じようなパッセージが繰り返し登場するため,何度も繰り返し練習していると,「今どこにいるんだっけ」状態になることがしばしばあった(後述するようにタウジッヒやハチスンの編曲では,同じメロディーが繰り返される場合も演奏技巧はそのたびに変化するため,「ここはどこ,私は誰」にはならない)。
また,コーダの部分は原曲のままだとちょっとおとなしすぎるので,最後の上昇半音階は両手交互のオクターブ(マルテラート)にして,もう1オクターブ上まで音域を広げたほうがいいと思う(実際,そのように演奏しているピアニストも少なくない)。
冒頭部分
最初の「ワルキューレのサイトモチーフ」
2度目の「ワルキューレのサイトモチーフ」:左手をオクターブの連続にするような「無茶振り」はしない
最初の経過句
弾き易いんだけど,面白みに欠けるかな?
主題回帰部:最初の部分と全く同じ。演奏する方は楽でいいけど・・・。
コーダ:おとなしすぎ! 私は,色々手を加えて演奏しているし,手を加えたくなる譜面である。
Carl Tausig(1841〜1871年)はポーランド出身のピアニスト(ポーランド語では「カロル・タウシク」)。14歳でリストに師事し,卓越した演奏技巧でリストも一目置く存在となり,演奏旅行に同行するようになった。20代からヨーロッパ各地で演奏会を開くようになり,多くのオリジナル曲や編曲作品を発表したが,29歳の時にチフスで早逝。
ちなみに,ブラームスはリストを嫌悪していたが,なぜかタウジッヒは高く評価し,彼の超絶技巧を常に褒め称えていた。そのタウジッヒの演奏技巧をブラームスなりに展開したのがあの超絶技巧の塊である難曲『パガニーニ変奏曲第1巻,第2巻』である。
タウジッヒのオリジナルのピアノ曲で現在楽譜が残っているのは『バラード 幽霊船 (Das Geisterschiff』,『ハンガリー風チゴイネルワイゼン』,『10の前奏曲』,『2つの演奏会用練習曲』くらいのものだが,いずれもかなりの難しい。
しかし,タウジッヒのピアノ曲としてはやはり編曲がメインである。
Ernest Hutcheson (1871〜1951)はオーストラリアのピアニスト,作曲家でピアノ教師としても有名。ピアノ協奏曲,ピアノ独奏曲,ヴァイオリン曲などのオリジナル曲を数曲書いているようだが,現在は全く演奏されないと思う。私は「4つのピアノ曲 Op.10」,「2つのピアノ曲 Op.11」,「4つのピアノ曲 Op.12」の楽譜は所有しているが,どれも弾いたことはない。
ピアノ編曲で楽譜を所有しているのはワグナー2曲「ワルキューレの騎行」と「マイスタージンガー前奏曲」,そしてメンデルスゾーンの「真夏の夜の夢からスケルツォ」。どれも華麗な演奏技巧を要求する演奏会用パラフレーズである。
「ワルキューレの騎行」だが,編曲方法としては,左手で「ワルキューレのライトモチーフ」を,右手で「天空のライトモチーフ」+「上昇音階」で伴奏という手法であり,演奏してみるとわかるが,右手がほぼ休みなく細かいパッセージを演奏しなければならず,おまけに右手の[4-5]のトリルばかりで,しかも後半になるに従って音の数が増えていくため,右手がかなり疲れる曲である。おまけに,ところどころに人間工学的に弾きにくいパッセージがあるので,決して弾きやすい曲ではないと思う。
以下,譜例を挙げて説明するが,所有している楽譜がコピー譜のため,楽譜の一部が切れている部分があることを最初にお断りしておく。
まず,冒頭部分。両手のトリルを連続させる工夫が面白い。
最初の「ワルキューレのライトモチーフ」の部分。ここでもわかるように,右手は最後まで[4-5]のトリルが連続する。右環指と小指の強化にはうってつけだが,弾く方としてはちょっとウンザリ。
2度目の「ワルキューレのライトモチーフ」。左手がオクターブになるだけで右手は同じ。
最初の経過句。タウジッヒの譜面に似ている。
「ワルキューレのライトモチーフ」の回帰部分。2段目の右手はちょっと弾きにくい。というか,そろそろこの音形に飽きてくる。
その次の部分。この右手も微妙に弾きにくい。
2つ目の経過句。ここは他の二人と大同小異。というか,編曲の工夫のしようがない部分だからしょうがないか。
主題回帰部。ここは最初の「ワルキューレのライトモチーフ」と全く同じ。
その次の「ワルキューレのライトモチーフ」。極めて華麗でピアニスティック! ただ2段目の下降アルペジオが微妙に弾きにくい。
その次の部分。右手はトリルと音階の連続だが,途中に挟まれた和音がこれまた微妙に弾きにくい。格好いい部分なんだけどね。
(2015/06/29)