内容はとても面白かったし,とても勉強になった。
これまでの生物学,医学では交感神経がメイン,副交感神経はサブという感じで自律神経系を考える傾向があったが,本書の著者は,心臓細胞がアセチルコリン(御存知,副交感神経を作動させる神経伝達物質である)を産生していることを世界で初めて発見し,実は心臓を心臓たらしめているのは副交感神経系であることを明らかにしたのだ。そして系統発生的にも個体発生的にも副交感神経がより根源的であることから,自律神経系についての見方を一変させた第一人者なのである。
そして,アセチルコリンが真核生物の誕生に深く関わっていたことも明らかにする。アセチルコリンはミトコンドリアの暴走を抑止するための抑止役だったのだ。これを知っただけでこの本を買った甲斐があったし,これだけでも十分に元は取ったと思う。
それまで知られていなかった事実を明らかにするというだけで,一般向けの科学書としては十分過ぎると思うし,その意味で本書は良書である。文章も明確で分かりやすい。
良書であり素晴らしい本なのだが,それ以上ではないことも事実だ。事実以上のことが書かれているわけではないので,圧倒的な読後感には至らないのだ。恐らく,著者もそういう事を望まないタイプの書き手なのだろう。
そこで,本書の内容を元に,もうちょっと想像の翼をひろげてみようと思う。
本書には「アセチルコリンは非常に起源の古い物質で,30億年前に出現したバクテリアからも見つかっている」とある。また,心臓細胞だけでなくほとんどの細胞が産生しているとも書かれている。しかし,それがなぜなのかについては本書は言及していない。
実は,アセチルコリンは生物界では普遍的物質と思われる。
真核細胞では細胞質で嫌気性代謝である解糖系によりブドウ糖をピルビン酸に分解し,ピルビン酸はピルビン酸デヒドロゲナーゼの作用でアセチルCoAになり,アセチルCoAはミトコンドリア内に移動してTCAサイクルに入り,ATPを産生する。
アセチルコリンはアセチルCoAとコリンから作られるのだ(この時働く酵素がコリンアセチルトランスフェラーゼ)。
一方,真正細菌では解糖系は最も基本的な代謝系の一つで,ほとんどの真正細菌が持っている。中でもピルビン酸からアセチルCoAが生成されるあたりの酵素が最も古く,これが最古の原始的解糖系だったとされている。そしてTCAサイクルで最も起源の古い部分(フマル酸からオキサロ酢酸の経路)が結び付く形で,現在の代表的解糖系であるエムデンーマイヤーホフ経路(EM経路)が完成したようだ。また,古細菌の多くも変型EM経路の解糖系を持っている。
そして,メタン生成菌(古細菌)の細胞内にαプロテオバクテリア(真正細菌)が入り込み,共生関係を結んで誕生したのが真核細胞であり,αプロテオバクテリアがのちにミトコンドリアとなった。メタン生成菌もαプロテオバクテリアも独自に解糖系を持っていたので,アセチルコリン生合成の元となるアセチルCoAは生成できていたことになる。
問題は真核細胞がいつ,アセチルコリンを産生するようになったかだ。
恐らくそれは,大気中の酸素濃度が上昇してからだ。
メタン生成菌とαプロテオバクテリアの共生は,当初,両者ともに別々に解糖系を持っていたが,αプロテオバクテリアの解糖系の方がメタン生成菌のそれより効率が良かったため,メタン生成菌が自前の解糖系を捨て,αプロテオバクテリアの解糖系酵素を引き継いで自前の遺伝子に書き込んだようだ。これで,細胞質の解糖系とミトコンドリアのTCAサイクルをアセチルCoAでつなぐというエネルギー生成系が完成した。しかし,その頃の地球には酸素はほとんどなかったため,後者は開店休業状態であり,生存に有利な能力ではなかった。
しかし,32億年前に酸素発生型光合成細菌であるシアノバクテリアが誕生し,酸素を排泄するようになり,状況は次第に真核細胞に有利になっていった。当初,酸素は海水中の鉄イオンと結びついては酸化鉄として沈殿させることに消費されたが,全ての鉄イオンを酸化させると,大気中・海水中の酸素は一気に増加したようだ。
真核細胞のミトコンドリアは酸素がない状態では借りてきた猫のようにおとなしかったが,海水が好気的になると暴君に変身した。生体毒の活性酸素を細胞質内に吐き出し,細胞自身を破壊し始めたのだ。
当初,宿主であるメタン生成菌はカタラーゼを獲得することで対抗したと想像される。この酵素は非常に起源の古い酵素の一つで,無酸素状態の水中でも太陽光の紫外線で生成される活性酸素対策として生物が獲得したものと考えられている。
しかし,酸素濃度が上昇するにつれて,カタラーゼでは追いつかなくなり,ミトコンドリアの好気性代謝抑制する必要が生じてきた。それがアセチルコリンだったのだろう。これにより,真核細胞はミトコンドリアという「獅子身中の暴れ虫」を手懐けることに成功した。
暴れ者と言えばシアノバクテリアも同様だった。太陽光を浴びては歯止めなく増え,その結果,環境が悪化しては大量死を繰り返した。その結果,死骸が海底に分厚く堆積し,大量の有機物となった(これが地殻に取り込まれて変化したのが現在の石油であるので,どれほど大量のシアノバクテリアが当時の海を埋め尽くしていたかがわかる)。この大量の有機物を効率よく取り込むため,酸素を武器に大量のエネルギーを自在に得られるようになった真核細胞は多細胞化,大型化していく。
その末裔が私たちだ。心臓細胞を含む私たちの身体のほとんどの細胞がアセチルコリン産性能を持っているのには,このような進化の結果であり,決して偶然ではないと思われる。
(2015/08/31)