カプースチン挑戦記


 数年前から,かなりマジでピアノの練習を再開した。外来のスミッコに4万円の超安物のデジタルピアノを置き,昼休みのちょっとした空き時間に練習できるようになったからだ。

 私は高校2年生までは先生についてピアノを学んでいたが,それ以降は全くの独学でレパートリーを増やしたものの,医者になってからはピアノが手元にない生活が続き,ピアノにほとんど触らない10年間があったりしたが,それでも,少し練習するとそこそこ弾ける程度の腕は維持できていた。
 そして,毎日(と言っても月曜から金曜)1時間ほどピアノが弾けるようになった。ピアノ練習を再開して驚いたのは,数十年前のテクニックが次第に戻ってきたことだった。そして,新たな難曲に挑戦する日々が続き,ホロヴィッツ編曲『星条旗よ永遠なれ』,ラヴェル『道化師の朝の歌』,ブラッサン編曲『ワルキューレの騎行』を何とか弾けるようになった(もちろん,ミスタッチは多いし,完璧からは程遠い演奏だけど)。あと1年半で60歳になる素人ピアノ弾きとしては上出来だろう。

 となったら,次なるターゲットは40代の頃に一度挑戦してても足も出なかったニコライ・カプースチンの『8つの練習曲 Op.40』しかない。年齢的にも,挑戦するなら今がラストチャンスだろう。やるなら今しかない。
 そんなわけで,無謀にもカプースチンの練習曲に挑むことになった熟年(初老期?)オヤジの「カプースチン挑戦記」を不定期でお伝えしようと思う。

 ニコライ・カプースチン(Nikolai Kapustin)は1937年にウクライナに生まれた作曲家・ピアニスト。
 モスクワ音楽院でピアノの教育を受けるも、その後、ジャズとの衝撃的出会いから深くジャズに傾倒し、クラシック音楽の伝統的作曲法とジャズやロックの語法を高度なレベルで融合させた独自の作品を多数発表している(現時点で作品番号の付いた作品は140曲を超えているはず)
 
 私が最初にカプースチンの名前を知ったのは1999年で,教えてくれたのは「東京大学ピアノの会」OBの不破さん(不破さんとカプースチンの出会いについてはこちらをご参照いただきたい
 最初に教えていただいたのは『8つの演奏会用練習曲 Op.40』,『24の前奏曲 Op.53』,『ピアノソナタ第1番』,『ピアノソナタ第2番』だったが,それはまさに衝撃的だった。それまで聞いたことがない新鮮なメロディーとそれを支えるエッジの立ったリズム,そして変幻自在な和声、爆発的な高揚感と迸る(ほとばしる)熱気,豪快さと繊細さが同居する独特のピアニズム、そして何よりピアノ曲としての完成度の高さ! これを衝撃的と言わずして,何を衝撃的と言うのか!
 これらの楽譜はほどなく私の手元にも届けられたが,手元にピアノがないこともあり,実際に弾く機会はなかなかなかった。
 その後,何度か実際に弾く機会があったが,見事に弾けないのだ。例えば『練習曲第1番 Op.40-1』の冒頭の2小節がそうだった。
 片手ずつだと初見で簡単に弾けるのに,両手を演奏するとリズムがまともに取れないのだ。8分音符と16分音符しかないシンプルな譜面なのに! 譜面に書いてあるとおりにリズムを刻めばいいはずなのに,それができないのだ。
 そんな訳で,私はカプースチンの楽譜を「私にはどう足掻いても弾けない曲」という棚に入れ,封印した。


 そして,数年前に5万円程度のデジタルピアノを購入して外来に置いた。88鍵あるだけマシという程度のピアノだったが,これだってないよりマシである。私にとっては毎日弾けるほうがはるかに重要だったから。
 そして,
ホロヴィッツの『星条旗よ永遠なれ』人前で演奏する機会があり,2ヶ月かかったが何とかこのピアノでマスターした。まさかこのピアノも,持ち主がホロヴィッツを練習するとは思ってもいなかっただろう。そして,以前から弾いてみたかったブラッサン編曲の『ワルキューレの騎行』も弾けるようになった。

 となれば,次なるターゲットは無理と分かっていてもカプースチンの練習曲しかない。年齢的にもあと1年半で60歳だから,多分これがラストチャンスだろう。今,猛練習(と言っても1日1時間程度だけどね)しても弾けなかったら,それは私の演奏能力がカプースチンには足りなかったというだけのこと。真面目に練習したけど弾けないのと,碌に練習もしないで弾けないのとでは大違いだ。
 この曲集に出会った1999年に弾けなかった理由ははっきりしている。手元にピアノがなくて毎日練習できなかったからだ。毎日練習しなくても楽々弾けるピアノ曲はたくさんあるが,カプースチンはそうではないのだ。毎日,繰り返し繰り返し同じ場所を練習し,弾ける小節を1つずつ増やしていき,それらを繋ぎあわせて一つの曲にする作業が絶対に必要なのだ。

 それは,「偶然に弾けている部分を,必然的に弾けるようにする作業」と言ってもいい。
 偶然に,なぜか勢いでうまく弾けてしまうことはよくあることだ。しかし,偶然は偶然であり,次に弾こうとしてもなぜかうまく弾けない。繰り返し弾くことで,「よくわからないけど弾けている」部分を「何十回弾いてもミスなく弾ける」ようにするのが練習なのだ。
 そのカギを握るのは,自分の手に最適な指使いを決めることだと思う。特に,私のように1日の練習時間が1時間程度しか取れない場合は,あらかじめ全ての音符の指使いを決める必要があり,指使いを決めずに練習しても全く意味がない。
 『ワルキューレの騎行』では,指使いを徹底的に工夫し,ほとんど全ての音符に指使いの数字を書き込んだ。その結果,私にとってこの曲は「必然的に弾ける曲」となった。





【第1番「前奏曲」 Op.40-1】
 そしてカプースチンに挑戦する時が来た。一番最初にどれに挑戦するかでかなり迷った。魅力的な曲は多数あったが,

ソナタのように長い曲は無理
スピーディーで無窮動的な曲が好き
リズミックな曲が好き
とにかく派手な曲が好き
 
 という4条件から,『8つの演奏会用練習曲 Op.40』の第1番,第3番,第8番をターゲットに決め,まず第1番「前奏曲」から取り組むことにした。

 だが実際に弾いてみると、最初の1小節目から情けないほど弾けないのだ。片手ずつなら簡単に弾けるのに(何しろ,4分音符と8分音符と16分音符しかない),両手で合わせようとすると,これが無残で滑稽なほど合わないのである。理由は明らかだった。
私が知っている従来のどの曲ともリズム体系が違う。遊びでたまに弾くジャズとも違う。
1拍ごとに調性が変化する部分が多い。
パッセージの使い回しがほとんどない。同じフレーズの繰り返しでもパッセージはどこか必ず変えている。
変幻自在なリズムとパッセージと調性の変化のため、暗譜がなかなかできない。つまり、その次の音が瞬時に思い出せない。
 
 結局,1小節ずつ,片手ごとに指使いを決定し,片手ずつ練習しては,「バイエル初心者」級のゆっくりしたテンポで両手一緒に弾き,それが完ぺきにできたら徐々にテンポを上げる,という牛歩戦術である。名付けて「千里の道も一歩から」作戦だ。
 練習での基本方針は次の通り。
とにかく、そのパッセージで考え得るあらゆる指使いを試してみて、自分にベストの指使いを見つける。
両手を合わせるタイミングを身体が覚えるまで遅いテンポで何度も繰り返す。
超遅いテンポの時からきちんとアクセントを付けて弾く。
 
 だが、1週間もすると1ページ目を通して止まらずに弾けるようになり、テンポを上げてもなんとかそれらしく弾けるようになった。実際に弾いてみると分かるが、カプースチンのピアノ曲は人間工学的に無理な部分は全くなく、手に馴染みやすいのだ。もちろん、技巧的には非常に高度なものが求められるが、苦労すれば必ず報われる、という感じなのだ。
 2ページ目は非常に弾きにくい部分が一箇所あったが、それもなんとかクリアした。この頃から「カプースチンとのつきあい方」みたいなものが見えてきたようだ。3ページ目はさらに難しい小節が幾つかあったが、気合いと根性(?)でクリア。ここまで辿り着くのに1ヶ月ほどかかったと思う。

 しかし、更なる難所が待ち受けていた。4ページ目最後の段から始まるアドリブ演奏を髣髴とさせる部分だ。1拍ごとに和声は目まぐるしく変幻自在に変化し,次から次へと新しいパッセージが生み出されていき、同じパッセージは全くない。右手のアドリブ演奏を左手のベースが支えている部分もあるが、左手は右手のわずかな隙をついてはアドリブを仕掛けて来る。遅いテンポなら何とか合わせられるようになっても、少しテンポを上げるとグダグダ、という日が何日も続いた。とにかく、一瞬でも気を抜いたら流れが止まってしまう。この1ページだけで1週間以上かかったと思う。とにかくこの部分は,呼吸を止めて一気に弾き切るようにするしかないようだ。緊張感が緩んでタイミングが少しでもずれたら,そこで負けだからだ。
 この部分さえクリアできたら,あとは技術的難所はなく,最後の格好いい和音まで一気呵成だった。





【第8番「フィナーレ」 Op.40-8】
 第8番「フィナーレ」は現在(2015年10月20日),練習中である。かなり遅いテンポなら両手を合わせて止まらずに弾けるまでになっている。人前で弾くためには,もっと速いテンポで颯爽と弾かないと格好がつかない曲だが(何しろテンポ指定はプレスティッシモだ),どこまで速く,かつ正確に弾けるかは神のみぞ知る・・・である。
 第1番「前奏曲」と第8番「フィナーレ」,どちらも迷惑なほど難しい曲だが,第8番はリズムのとり方は難しいが,演奏技巧的には第1番よりわずかに弾きやすいかな?
 というわけで,私の指使いを公開。







【第3番「トッカータ」 Op.40-3】
私の指使い。







【24の前奏曲集 Op.53 第1番】
 Op.40-3も大体目処が立ったので,次に何を練習しようかといろいろ模索。当初は,大好きな「ソナタ第1番の第4楽章」を考えていたが,実際に弾いてみると,技術的にはすごい難所はあまりなさそうなんだけど,曲が長大で「1日に1時間しか練習できない」素人には相性が良くない感じ。技術的には難しくても,5ページ前後の曲の方が取り組みやすいです。
 「練習曲第1番」,「練習曲第3番」,「練習曲第8番」とこれまでカプースチンを練習してきてわかったのは,私は「ぎっしりと音符が詰まっている音の過剰感」,「両手がトップスピードで止まることなく音を紡ぎだす緊張感」がたまらなく好きだってことです。
 そこでターゲットを小曲集に絞り,「24の前奏曲集」で最もド派手な「第1番」にロックオン。とりあえず,ここまでは指使い決定。




【Y.近藤:ショパンの第3ソナタのフィナーレと「巨人の星」の交響的融合】
Symphonic Fusion on Finale of Chopin's Sonata No.3 & the theme song of Star of Giants

 カプースチンの「前奏曲第1番 Op.53-1」がなかなか先に進まないため(中間部の左手のベースがムチャクチャ記憶しにくい),もうちょっと弾き易そうな難曲(こういうのを自家撞着的表現という)はないかとパソコンのHD内を渉猟し(楽譜はすべてPDF化している),以前挑戦したものの「なんちゃって演奏」しかできなかったこの曲にロックオン。以前弾けなかった部分の指使いを徹底的に検討して再挑戦することにした。
 この曲についてちょっと説明。

 今から17年ほど前(?),当時,東京大学医学部5年生だった Y.近藤さん(現在は東大附属病院の内科医)が作曲した大傑作。
 もともとは,「東大ピアノの会」の宴会か何かで「そういえば,ショパンの第3ソナタのフィナーレとアニメの『巨人の星』の主題歌って似てるよね。2つを重ねて弾いたら面白くね?」という話題になり,「なら,やってみっか」と近藤さんが学業の傍らに作曲した,と聞いています。
 聞いてみる(弾いてみる)とわかりますが,ものすごい完成度の高さで,素人の余技のレベルをはるかに超えています。ショパンの原曲のパッセージと『巨人の星』のメロディーが極めて高いレベルで渾然一体に「融合」していて,その見事さはまさにゴドフスキー級。「素人にもわかる派手(で簡単)なパッセージ」と「玄人ウケする演奏困難な多声部同時進行」がバランスよく組み合わされていて(このバランス感覚は実に見事),正式の演奏会から忘年会の余興まで使える最上級のアンコールピースでしょう。プロ相手でも素人相手でも,同じくらい「ウケる」稀有のピアノ曲です。
 ちなみに,Y.近藤先生の医学部学生時代の演奏を聞いたことがありますが,ホロヴィッツの『カルメン』や,アルカンの『ピアノ・ソロのための協奏曲』などの難曲を軽々と正確に演奏していてプロ顔負けの腕前でした。
 

 というわけで,私の指使いです。以前弾けなかった部分,いい加減に弾き飛ばしていた部分の指使いを熟考しました。譜面にとらわれずに左右の配分を考え,大胆に変更しています。逆に言えば,このくらいまで手を加えて工夫して初めて,私が弾ける曲です。
 11月18日の時点で本格的に練習を始めて10日ほどですが,あと数日で「ノンペダル & インテンポ」で通して弾けるかな,という感じです。








(2015/11/19)

Top Page