万葉集を知らない人はいないと思う。もちろん,日本最古の歌集であり,一般には「庶民の素朴な生活感情を率直に表現した国民歌集」とされ,聖典とされている事は周知の事実である。そしてこの歌集を通じて,山上憶良は家族思い,大伴旅人は大酒飲みの歌人,というイメージが日本国全体に確立していると思う。
ところが,そのような通説・定説に対し,そういう見方はおかしい,そういう前提条件で歌を解釈するのはおかしい,と説くのが本書である。まさに「目からうろこ」であるが,見事な論理の展開は隙が無く,説得力は圧倒的だ。
万葉集が「これぞ日本人の心情を表した国民歌集」としてブームになった事がこれまでに3度あった。最初が平安時代末期,その次が江戸中期,そして大正時代以降である。特に近代以降に万葉集の解釈と位置付けに決定的な決定的な影響を与えた書物が斎藤茂吉の『万葉秀歌』だった。そこで茂吉は,「古今和歌集は技巧ばかり鼻について内容がない。それに比べ万葉集には当時の庶民の素朴な心情が嘘偽りなく歌われている。これこそが国民歌集であり,国の宝である」と最大限に持ち上げた。
現代でもこのような論調が大勢を占めているらしいし,そのように解説している本を読んだ事もある。だがそのころから,私ですら,何となくこのような論調には胡散臭さを感じていた。
だって「平安時代の古今和歌集は技巧のひけらかしであり,平安貴族の言葉遊びだから下らない。その点,奈良時代の万葉集は庶民の歌だし,奈良時代の庶民は平安貴族のようなこっすからさもなく,おおらかに伸びやかに生きていて,その心情を嘘偽りなく吐露しているから素晴らしい」というのはおかしいんだもの。
要するにこういう考え方は,奈良時代は平安時代より原始的だから,嘘をつくような知恵もなく,フィクションを作る能力も無いから,実際にあったこと,実際に感じたことをそのままに歌にしたはずだ。フィクションを作るようになるのはもっと後の時代だ」と言っているのと同じだからね。何のことはない,奈良時代の人間を一段低く見ているわけである。
だが,奈良時代といったってせいぜい1300年前である。1300年前の人間が嘘も言えない純朴人間ばかりで,それから100年程たったら嘘つきばかりになった,というのはどう考えてもおかしい。同じ人間なんだから,1300年前から本音と建前を使い分け,偉い人の前ではおべんちゃらを言い,自分より若い連中が自分達と違う事をしていれば「最近の若いもんはなっとらん」と憤慨し,どうせ文章にして残すなら格好いい事を書こうとしたはずだ。要するに,私たちと同じである。そう考えた方が自然であろう。
本書では,「万葉集とは・・・」という思い込みも前提も排し,徹底的に万葉集そのものの文章を読み,なぜそういう歌を作る必要があったのか,どういう人間ががその歌を作ったのか,一体何が書いてあるのかを,膨大な史料とつき合わせて明確に論じるのである。その上で,万葉集は本音と建前で言えば建前の歌であり,宮廷歌人が貴族や天皇の注文に応じて作った歌であり,フィクションであり,ええ格好しいの歌であることを示していく。
もしも万葉集が「庶民の歌」であるなら,庶民はどこに暮らしているかといえば,都でなく地方である。地方で使われる言葉は方言である。であれば,万葉集は方言だらけでなければいけないはずだ。
しかし,万葉集で使われている言葉は宮廷の言葉である。おまけに,万葉集の歌には「東歌」と「防人歌」以外に方言を使っている歌がない。そして,方言を使っている歌は「東歌」と「防人歌」として別ジャンルにひとく繰りにされ,他の歌(相聞歌とか挽歌とか)とは別個に扱われている。
万葉集には天皇や貴族の歌が多いが,それ以外の「読み人知らず」の歌でも,使われているのは都の言葉であり,天皇達が使っていた言葉である。つまり,宮廷で生活する人が,彼らの共通語で書き記したものが万葉集なのだ。間違っても,「田舎に暮らしている庶民が生活感情を素朴に表現」した物ではない。
要するに万葉集とは,時節の挨拶の歌であり,宴会の雰囲気作りの歌であり,天皇や貴族の施政方針演説であり,「旅とはこういうもの,恋とはこういうもの」というパターン化した情景を歌ったものなのだ。決して,個人の感情を率直に述べたものではないのである。
例えば,妻を亡くした柿本人麻呂がその痛切な心情を歌ったとされる「泣血哀慟歌」は有名だが,この歌は二つあり,もう一方では恋人の死を嘆き悲しんでいる内容となっている。従来この2つの歌にはいろいろ苦しい解釈がされてきたようだが,本書のように「妻も恋人も死んでない。単なる創作である」とすると,非常にすっきりする。つまり人麻呂は,死んでいない妻の死を嘆き,存在しない恋人の死を悼んだわけだ。
なぜ,人麻呂はそういう歌を作ったか。それは要するに,人麻呂は宮廷歌人だったからである。宮廷歌人だから,宮廷の貴族に「今度は,うんと哀しい気分の歌を作ってくれ」と頼まれれば二つ返事でハイといい,即座に作って見せるのが仕事である。多分,念のために「妻死亡パターン」と「恋人死亡パターン」の二つを作って渡したんだろうな。それが職業歌人であり,貴族(パトロン)おかかえの歌詠みの生きる道なのである。
音楽で言えば,モーツァルトの頃までは貴族のおかかえ作曲家であり,彼らはパトロンから注文があると,その示された条件に合わせて,楽しい曲,陽気な曲,荘重な曲,哀しい気分の曲を作り分けてきた。「今日は気分が乗らないから楽しい気分の曲は作れません」なんて言おうものなら,失業しちゃうのである。心で泣いても顔は笑うのがプロってもんだ。作曲家が自分の気分に従って曲を作るようになるのは,19世紀もかなりたってからである。
ま,それと同じようなものだろう。歌人だって同じ。いくら自由に歌を作ったところでそれが金にならなければ生きていけない。自分の作った歌を買い上げてもらってこそ生きていけるのだ。このあたりの事情は非常にわかりやすいし,説得力がある。
そのほかにも本書には,「妹」という言葉が時に「妻」であり別の場面では「恋人」となる理由とか,現在では「意味を持たない修飾語」として解釈されている「枕詞」が生まれた意味,「春日」や「飛鳥」は「カスガ」「アスカ」と読めないはずなのに,なぜ「春日」や「飛鳥」と書いて「カスガ」「アスカ」と読むようになったのかとか,いろいろ鋭い考察があってそれだけでも十分に面白い。このあたりは,薀蓄のために読んでもいいだろうな。
最初に,万葉集とはこういうもの,斎藤茂吉がこう評価しているから・・・とレッテルを張ってしまうと,従来からの解釈を鵜呑みにするしかないし,そこから一歩も進めない。もちろん,新しい発想はでてこない。
これは要するに,「昔から消毒はする事になっている」という態度と同じなんだよ。
(2004/10/12)