『大本営発表は生きている』(保阪正康,光文社新書)


 大本営発表というのをご存知だろうか。第二次大戦(太平洋戦争)中に日本国民に日本軍の戦果を伝えた報道の事をいう。戦争中の出来事を取り上げたテレビ番組には必ず登場するから,多くの人が知っていると思う。

 ちなみに,あの甲高い声で大本営発表を伝えるラジオのアナウンサーの声は,現在の国営放送で「将軍様」の動向を報じる北朝鮮テレビのアナウンサーの勇ましい声と瓜二つである。どうも人間という奴は,「現実から遊離した願望的状況」を読み上げる時は同じような声の調子になるものらしい。

 この本は,太平洋戦争中に発表された大本営発表の内容と実際の客観的戦況を照合させ,何が報じられて何が報じられなかったかを詳細に論じた力作である。そしてその分析は,大本営発表に使われている主語と述語,修飾語の分析にまで及ぶ徹底ぶりである。


 その分析から浮かび上がってくる「真の日本軍の姿」は覆わんばかりのていたらくである。それは,国民に戦争の経緯や戦果を伝えるものではなかったのだ。
 何しろ,真珠湾攻撃のその日,大本営発表はその様子を華々しく伝えているのに,ポツダム宣言を受諾し敗戦した8月15日には全く発表がなかったのである。戦争を始めた事を伝えるなら,終わった事も伝えるのが当然である。それをしない,できないところに大本営発表の本質があった。要するに,都合のよい情報は大々的に知らせ,都合の悪い情報には頬かむり,であり,万事この調子であった。

 それでも,開戦から少しの間は発表は正確で表現も控えめだったが,ガダルカナル島攻防のあたりから狂ってくる。被害を少なく,戦果を過大に報告し始めるのだ。何しろ台湾沖航空戦ではアメリカ軍の損害はほとんどなかったのに,大本営は「航空母艦11隻,戦艦2隻などを撃破沈没」と発表しているのだ。もしもこれが事実なら,アメリカ海軍の機動部隊は壊滅状態であり,被害がほとんどない日本軍は怖いものなしのはずである。それなのに,どんどん戦況は悪くなり,日本軍は敗走続きで追い詰められていく。全滅したはずのアメリカ空母からはなぜか多数の戦闘機が飛んでくる。


 この時,軍司令部は昭和天皇にすら嘘をついていた。正確な戦況を天皇に伝えないばかりか,「我が軍はアメリカ軍を撃破しました」と伝えたもんだから,昭和天皇からは「よくやった」というお言葉(詔勅)をいただいてしまうのだ。もうこうなると,天皇にも嘘をつき通すしかない。まさか大元帥である天皇に「あの,お誉めいただいた報告は嘘でした」とは言えないもんね。

 これ以後,軍は書類上の功名争いに興じるばかりで,現実の状態からひたすら目を閉ざし,「主観的願望と客観的事実のすり替え」に狂奔し,自己陶酔の夢に浸るばかりになる。
 そして,架空の戦果の報告が続いたのは,陸軍と海軍が一体化されていなかったばかりか,対立関係にあった事が原因とされている。


 もともと日本軍は陸軍から始まり,海軍が整備されたのはその後だ。「陸主海従」が日本軍の原則だった(このあたりについては他の本の書評でも取り上げる予定)。ところが,太平洋戦争では最初に海軍が華々しい戦果をあげてしまった。こうなると陸軍のメンツがすたる。陸軍としては,海軍の次の発表の前に(後だったらインパクトに欠けるから当然だろう)もっと華々しい戦果を報告しなければいけない。かくして,陸軍と海軍は競うように「戦果」を発表することになった。発表すべき「戦果」がない時はどうするか? もちろん,「戦果を捏造」するしかない。嘘をつく相手は天皇だろうと国民だろうと,こうなってしまうと同じである。

 しかし,ミッドウェー海戦で日本軍は完全敗北する。国民から情報をシャットアウトしているはずなのに,上手の手から水が漏れるように「日本の空母は全滅したらしい」という噂が国民の間で立ち始める。この時,日本軍参謀はどうしただろうか。何と,負傷して日本に帰還したミッドウェーの生き残り(兵士やパイロット)を完全に幽閉してしまうのだ。彼らは日本に生きて帰れたのに家族に連絡する事すら許されなかった。病院のカーテンを開けることすら許されなかったという。
 真珠湾攻撃第一次攻撃隊長はこの海戦で負傷したが,この対応に「国のために戦って傷ついた我々を,犯罪者なみに扱うのか」と激怒したという。

 これでは兵士は浮かばれない。兵士をぞんざいに扱う国家が存続したためしはない


 大本営,そして日本軍の基本的な間違いはどこにあったのだろうか。これは次の2点に集約されそうだ(この2点については,のちに詳しく書く予定)

  1. 戦闘だけが戦争だと考え,20世紀の戦争のルールについてあまりに無関心だった。
  2. 戦争における情報の重要性に全く無知だった。自身が無知・無関心だったから,国民に正確な情報を伝えることは初めから考えていなかった。


 戦争とは何だろうか。戦争とは,国家の目的を達成するために軍事的解決法を選択することである。つまりそれは本来,外交などと同等である。「国家の目的」が達成されるのなら,その手段は最も損失の少ないものを選べばいい。外交で同じ結果が得られるのなら,何も戦争をする必要はない。「外交とは武力を使わない戦争」という言葉があったと思うが,これこそが外交と戦争の本質である。

 ところが日本は最初から「戦争ありき」だった。「国家としての目的」は本来政治的なものなのに,大本営では政治と軍事が全く分離し,軍事だけが一人歩きしていた。

 そして,情報の問題。これは日本陸軍の成り立ちの過程に根本的問題があった。情報を軽視するのが日本陸軍の伝統であり,情報で行動を変えるのは信念のない行為と批判された。このあたりの経緯については,後日改めて書く。


 要するに,太平洋戦争の大本営にとって,「戦争を続ける」事が至上命題だったのである。戦争さえ続けられれば,日本国民が全滅しようと構わなかったのである。

 これはつまり,自分で勝手に「まいった,と声をあげなければ負けではない」というルールを作り,「まいった」と言わなければいいだろうと考えていたようなものだ。自分で「負け」を認めなければ「負けない」わけだから,まいったと言わなければ負ける事もない。死んでも「参った」と言わなければ,死んでも負けないのだ。
 そして,そういう「決して負けない」自分の姿に陶酔しきっていたのが日本軍であり,それを宣伝するのが大本営発表の役目だったようだ。


 これが終戦直前の大本営発表になると,常軌を逸した惨状を呈する。例えば,広島原爆投下の後,大本営がそれを発表したのは30時間以上経過してからだった。実はそれ以前から,トールマン大統領は世界中に原爆の威力を発表し,敵国に投下可能である事を明言していた。また,日本軍の指示で原子爆弾の研究をしていた物理学者は,広島に投下された爆弾が原子爆弾である事は知っていたらしい。

 これらの事実を受けて内閣情報局と外務省は,国民に「原子爆弾が投下された」という事実を知らせるように進言したが陸海軍の回答は次の通りだった。

「原子爆弾に対する防衛策も指示する事もなしに原子爆弾の出現を報道すると,国民に対し非常な衝撃を与え,戦意を失わせるから不利である」。
 要するにここでも,戦争を続ける事が戦争の目的だったことがよくわかる。正しいことを伝えると戦意を喪失するから,正しいことを伝えるのは反国家的なのだ,という論理である。


 また,ボツダム宣言受諾の決まっていた8月14日の時点でも,大本営は「我航空兵隊は敵空母4隻を基幹とする敵機動部隊を大破炎上せしめり」と発表していた。つまり「我が軍はまだまだ戦っているし,敵に打撃を与えているぞ」と宣伝している。これもひどいものだが,これまでの経緯を知ってしまえば,このくらいならまだ可愛いものだが,それより恐ろしいのは,本書でも指摘されている「昭和20年8月12日の幻の大本営発表」である。これには背筋が寒くなるはずだ。

 この「幻の大本営発表」は

「帝国陸海軍は国体を護持し,敵連合軍に対し前面的作戦を開始する」
という内容だった。これについては,なんと陸軍大臣も参謀総長も知らなかった。新聞各社に大本営発表として配られたものの,その内容に不審をもった新聞社から軍参謀に確認の連絡が入り,発表は未然に防がれたらしい。

 これが昭和20年初頭だったら何も問題はない。問題はこれが,ポツダム宣言受け入れについて連合国側に連絡した後に出されようとしたことにある。

 もしも連合国がこの「幻の大本営発表」を聞いたらどう考えるだろうか(大本営発表はアメリカ軍にも全て筒抜けだった・・・というか,無頓着だった。自分達が情報を重要視していないから,相手も重要視していないだろうと勝手に思っていたから・・・)。間違いなく,「日本の降伏受け入れはポーズだけだ。日本軍は二枚舌を使っている。日本はまだ戦うつもりだ。もっと徹底的に国を破壊する必要がある」と考えるはずだ。そうなったら,第3,第4の原爆投下だってあったろうし,日本は壊滅的に攻撃されて廃墟になっていただろう。これは,太平洋戦争の研究者の多くが指摘していることであり,意見が一致している。
 本書ではこの「幻の大本営発表」について次のように断罪している。

「この項目は天皇にとっての謀反であり,事実上のクーデター未遂である。大本営発表の嘘の世界が暴露されるのを恐れて,最後にはこのような国家反逆の域にまで達してしまったのが大本営発表そのものだった。」

 要するに,自分達が作り上げた虚構の世界を守るために,国家も国民も国土も犠牲にしようと考えたのが日本軍の本質であり,その具体的表明が大本営発表だったのである。そしてここに,軍隊という組織のもつ恐ろしさが如実に示されている。


 現在,自衛隊が海外派遣されている。その活動の報道について,小泉首相も石破防衛庁長官も「日本の国益に合致する情報は報道するが,国益に反する報道は差し控える」ことを明言している。
 どうも,日本軍にしても自衛隊にしても,軍事力をもった組織や軍事力を発動できる立場にある責任者は,「情報を隠す」ことを自分の任務を考え,「情報を隠す」事で利益が得られると考えるようになるものらしい。そして,軍事情報というのものは,国民に知られると困るものらしい。

 本書でも指摘しているが,軍事とは本来,国民の生命・財産を国家目的のために犠牲にすることで成立しているシステムである。それを発動するのが軍事の責任者であれ政治の責任者であれ,彼らが掲げる「国家の目的」は,所詮,彼らが一方的に想定しているものに過ぎない。

 そして彼らは,その本質を隠すために美辞麗句を並べ,大言壮語を並べ,その軍事目的が得られなければ国民がいかに困窮し国際的信用をなくすかを,繰り返し,繰り返し主張する。つまりそれが,「大本営発表」そのものなのである。軍事力を扱う者の本質が変わらない限り,大本営発表はいつでも息を吹き返す可能性をもっているのである。

(2004/05/06)

 

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