『ローマ教皇とナチス』(大澤武男,文春新書)


 地上におけるイエスの代理者,使徒ペテロの後継者,それがローマ教皇である。全世界5億人のカトリック信者の尊敬を集めるモラルの体現者,それがローマ教皇だ。
 そんな歴代のローマ教皇の中でも,第一次大戦から第二次大戦の期間に教皇を努めたピウス12世は,戦争犠牲者,負傷者,困窮者の支援と慰問に超人的ともいえる活動を行い,最も尊敬を集めたローマ教皇の一人だった。

 しかし彼は別名「ヒトラーの教皇」とも呼ばれていた。彼はナチスによるユダヤ人大量虐殺の事実を知りながらそれを黙認し,他のカトリック司祭達がナチス非難の声を上げ,ピウス12世も声明を上げるようにと要求されても,最後まで沈黙を続けた。そしてそのような彼の態度は結果として,あの悪夢のホロコーストを影で支えるものとなってしまった。

 この本は,平和の使徒であり,隣人愛を唱えるローマ・カトリックの最高責任者が,人類の汚点とも言うべき大虐殺に反対しなかったのか,なぜ教皇は沈黙を続けたのかを解明しようとする力作である。


 本書で解き明かされる原因をまとめると,次のようになるようだ。

  1. 宗教を否定する共産主義が勢力を伸ばしていたことに危機感を抱いていた事
  2. キリスト教ヨーロッパ文明の根本にある反ユダヤ主義の影響
  3. ドイツ文化,ドイツ社会に強く親しんでいたピウス12世の個人的性向
  4. 軍事力も強制力も持たず,権威のみしか持っていないローマ教皇と言う存在自体の弱さへの認識
 これらがないまぜになり,ナチスの政策に賛同し,ナチスの大量虐殺を非難する声に意識的に耳を塞いでしまったようだ。


 もちろん,ピウス12世の業績自体は非常に大きなものだ。歴史上の幾多のローマ法王が発してきた膨大な法律をまとめあげ,それらと現実の法律との整合性を持たせ,現実の法律体系に匹敵する法体系として作り上げたのはを彼の個人的成果であるし(通常は,これだけでも一生物の大事業である),両大戦の犠牲者の家族を見舞い,傷ついた人達に声をかけ,医薬品を配布した。一日に4時間しか眠らず,粗末な食事しかとらず,万事控えめで,私欲と言うものがなく常に他人のために行動した。まさに超人であり,「使徒ペテロの後継者」にふさわしいものだったと思う。


 しかし彼の行動や発言は「ローマ・カトリック」の範囲内であり,その範疇をついに超えられなかったのも事実だし,ドイツを愛するあまりナチス・ドイツを無批判に受けいれ,反ユダヤ主義に疑いを持つ事もなかった。彼は繰り返し「隣人愛」を説いたが,その「隣人」にユダヤ人は最初から含まれていなかったのである。
 このあたりは,彼が仕えた前教皇のピウス11世が反ユダヤ主義を憎み,ナチスの危険性がわかっていたのと好対照である。

 また彼は,無神論を主張する共産主義に恐怖を抱いていた。これは,若い頃にユダヤ人過激派に監禁された事がある,という個人的経験が背景にあって,革命行為自体に嫌悪感を持ってしまったのが原因らしいが,同時にバチカンを守ることを第一義に考えてしまい,「共産勢力でなければ誰でもいい。ましてそれが共産勢力に対抗してくれるならもっといい」と考えてしまい,ナチスという最悪の悪魔をバチカンの守護者として受け入れてしまった。


 結局彼は,ローマ・カトリックとバチカンを守ることをメインに据えてしまい,人間個人の命を守る事を忘れてしまったようにも思われる。目の前の人達を守る事には全力を捧げたが,遠くポーランドや東欧で虐殺されている人間に対しては,ついに発言する事はなかった。また,ユダヤ人やロマ(ジプシー)への迫害に抗議したために収容所に送られ,虐殺されたドイツのカトリック司祭について知らされても,ついにナチスを非難することはなかった。「迫害はあってはならない事だ」と発言しても「誰が迫害しているのか」については,全く言及しなかった。恐らくこれが宗教者としての彼の限界だったのではないだろうか。


 そして何より根深いのは反ユダヤ主義の思想である。本書の内容を引用するとユダヤ人とは

 キリストが説く神の声に耳を貸さず十字架にかけて殺し,その天罰として祖国を失い放浪を続ける煩わしい民,キリスト教の隣人愛の教えに反する高利貸によって富みを築き,社会が困窮している時にかえって私腹を肥やしている人々
だそうである。要するに最初から,ユダヤ人は人間扱いされていないし,ユダヤ人を最初から敵視することで作り上げられているのがキリスト教である。

 その後の研究で,イエス殺害にユダヤ人は手を貸していなかったことが証明されているらしい。要するにそれは,新約聖書が作り出したフィクションであり,ユダヤ人にとっては濡れ衣に過ぎなかった,というのが真相らしい。

 だが,いくらそのような研究結果が発表されようと,敬虔なキリスト教とにとっては聖書の記述が全てであり,聖書が絶対に正しいわけだから,ユダヤ人はキリスト殺害に手を貸した永遠の敵でなければいけない。イエスの教えに背く異教徒であり,愛すべき隣人ですらないのである。その意味で,「ユダヤ人の絶滅政策と言う人類史上最大の犯罪を許してしまったのは,キリスト教ヨーロッパ文化全体の本質そのものではないか」,とのノーマン・メイラーは指摘は極めて重い。


 そして,この第二次大戦でのユダヤ人虐殺に沈黙していたのはローマ教皇だけではない。実は,アメリカもイギリスもフランスも無視していた。例えば,第二次大戦後半,アウシュヴィッツでの大量虐殺がアメリカで報告され,アウシュヴィッツに通じる鉄道の空爆が提案された。もしもそれが実現していれば,恐らく数万人のユダヤ人は虐殺されずに済んだはずと言われている。

 だが,結局アメリカは鉄道近くまで爆撃しておきながら,アウシュヴィッツには手を出さなかったし,その結果,鉄道で毎日のように数千人のユダヤ人がアウシュヴィッツに送られた。要するに,アメリカ首脳部にとってもユダヤ人は「厄介者」でしかなかったわけであり,ナチスによる大量虐殺を心のどこかで支持していたわけだ。

 そしてこの「ユダヤ民族見殺し」の負い目現代のパレスチナ情勢につながっている。第二次大戦中に見殺しにした負い目があるため,パレスチナに対するイスラエルの攻撃を見逃しているらしいのだ。第二次大戦の事を引きあいに出されると,どの国もそれ以上強い事が言えないのだ。


 ピウス12世は数世代に渡りローマ法王庁に仕えてきた家柄の生まれであり,このような反ユダヤ主義の聖書物語(実は上述のようにお伽話である)を乳児期から繰り返し聞かされて育ってきた。そして,10代初めで宗教生活に入り,20代で法王庁の役職についてしまったため,恐らく生涯において他の宗教に触れる機会はなかったはずだ。だから,キリスト教の教義を相対的に眺める機会はなかったろうし,他の宗教と比較する事もなかったはずだし,神の存在そのものを疑った事もないのではないだろうか。

 キリスト教の説く友愛の精神,隣人愛の精神はすばらしいが,それは上記のように「限定条件付きの愛」である。イエスの言葉は博愛に満ちたものだが,聖書の中の異教徒,特にユダヤ教信者に対しての彼の言葉は極めて攻撃的であり,人間扱いすらしていない表現も随所に見られる。何しろイエスはマルコ伝で,異教徒を「まむしの子」と呼び捨て,哺乳類ですらなく爬虫類扱いしているのだ。


 ピウス12世の生涯を見ていると,一つの宗教だけを盲信する恐ろしさ,怖さが見えてこないだろうか。神を信じるのはいいとしても,その神の愛が「限定条件付き」であって,対象が限定されたものである事を知らなかったことが,ピウス12世の悲劇(本人は悲劇と思っていなかったかもしれないが・・・)の原因ではなかったのではないか,という気がしてならない。

(2004/04/19)

 

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