『信長と十字架』(立花京子,集英社新書)


 歴史的事実と広く受けいれられていて,実はそれが嘘らしい,という事がある。


 例えば,戦国時代と言えば必ず登場する武田の騎馬軍団がそうである。なぜかと言うと,当時の馬は体高130cmそこそこで,いまでいうポニーである。だから大人を背に乗せてパカパカ走るのはかなり辛いし,ましてや鎧甲(フル装備すると30kg以上)を着込んだ武士を乗せると100メートルも行かないうちにへばってしまう。大人を乗せて走れる馬が日本に登場するのは江戸時代の後期(だったかな?)にアラブ種が輸入されてかららしい。

 同様に,「江戸時代は士農工商の厳然たる身分制度の階級社会で・・・」と言うのも大嘘。実は江戸時代の身分の壁はかなりゆるかったらしい。それなのに,なぜ「士農工商の階級が・・・」というのが定説になったかと言うと,明治政府がそう教えたから。

 つまり明治政府としては,「江戸時代は不合理な身分社会で皆が苦しめられていた。だから我々が立ちあがり,身分による差別のない平等な社会を作ったのだ。我々は民衆を開放したのだ」でなければいけないわけで(でないと,江戸幕府を倒した大義名分がないでしょう?),そのためには,江戸時代は封建社会で遅れていて野蛮であってくれないと困ってしまう。だから,明治政府は歴史の教科書に「士農工商」という言葉を登場させたわけだ。

 こういう話は実は歴史のどこにも転がっている。


 と言うわけで本書である。これはもう,一歩間違うと「トンデモ本」の仲間入りである。何しろ,織田信長が全国平定を考えたのも,本能寺の変も,その後の羽柴秀吉の登場も,すべてイエズス会,スペイン・ポルトガルが仕組んだものだ,と説いているのだ。

 ところが,その説明がもう見事と言うしかない。信長を中心とする歴史上の人物達の,これまで謎とされてきた出来事や不可解とされてきた行動を,全て説明してしまうのだ。それも圧倒的な説得力で・・・。
 これまでも,この時代をテーマにした歴史書は幾つも読んできたが,これほど論理的に整合性をもってあらゆる出来事を関連付け,説明してしまう様は爽快ですらある。


 著者の手法はただ一つ,あらゆる文献(信長と直接関係ないものも含め)を目を皿に様にして読む事だ。そして,いつどこで誰が誰に会ったか,会ってどんな話をしたのかを時系列で丹念に積み重ね,信長とイエズス会の関係を明らかにしていく。このあたりは最良の推理小説に匹敵する面白さである。

 何しろ著者によると,信長自身が自分とイエズス会との関係を示す資料を廃棄していたふしがある。そして,その後の秀吉・家康も実像を隠そうとしていたらしい。だから,信長がなぜそのように行動したのかを探ろうとして,信長が残した文書をいくら調べても謎だけが残るわけだ。
 しかし,イエズス会の宣教師達の残した日記は残っているし,信長と親交のあった人の手紙には痕跡が残っている。筆者はその痕跡を丹念に読み取り,時間的前後関係を明らかにし,その上で,実際に何が起こったのかを推論したわけだ。


 当時,スペイン,ポルトガルは大植民地主義のもと,次々に「新たに発見した土地」を自分のものとし,巨額の富を得ていた。その手段としてイエズス会の布教活動を利用し,その活動を経済的に支えていた。実際,中南米ではそのようにしてイエズス会が尖兵になり,植民地を次々開拓していった。要するに「南欧グローバリゼーション」である。

 両国にとって最も欲しかったのは中国である。しかし,当時の明をいきなり植民地化するのは難事業である。そのため,日本にキリスト教国家を誕生させ,その日本に朝鮮,そして中国を占領してもらい,その後で用済みになった日本を切り捨て・・・というシナリオを書いていたようだ。

 そのための第一歩が日本の統一であり,白羽の矢を立てたのが信長だった。


 一方,信長にとっても大きなメリットがある。宣教師達を介して,いくらでも銃でも大砲でも入手できるし,金銭的援助も得られるからだ。実際,日本で金山の本格的採掘が始まったのは秀吉の時代であるはずなのに,信長は膨大な黄金を持っていて,臣下に褒美として取らせていたという。このような軍事的・金銭的メリットは他のキリシタン大名も得ていた。
 信長がイエズス会に多大な便宜を図っていた事は事実であるが,その理由はこれで納得がいく。実際,この時代のイエズス会宣教師は武器を売りさばく「死の商人」であり,その「死の商人」を利用したのが信長だった。

 「軍隊は歩く胃袋である」と言われるように,軍隊は何も生みださず,ただ消費するだけである。現在のアメリカのイラク戦争・占領を見てもわかる通り,巨額の戦費を注ぎ込んでもそれで十分と言う事はないのである。それが戦争であり軍隊である。
 これは戦国時代にも共通している。戦国時代を勝ち抜くためには「歩く胃袋」に食わせ,武器・弾薬を惜しみなく使わなければいけない。
 この消耗戦に勝ち抜くため,信長はイエズス会に,イエズス会のために天下統一することを約束したのであり,だからこそ,他を圧倒する武力と戦費が得られたのである。
 その他の大名にとって現金収入は年貢だけであり,その収入だけでは長年の戦闘を維持することは不可能だったのだ。


 ところが途中から信長は暴走し,イエズス会にとって困った存在となる。信長にとってイエズス会とは金と武器を出してくれる便利な存在であり,キリスト教の教えはどうでもいい事だったらしい。

 その結果,イエズス会は邪魔者でしかない信長暗殺を画策し,明智光秀に信長討伐を命じるように朝廷に裏で働きかける。
 光秀が信長を裏切った原因として,これまでは信長に恥をかかされた私怨が原因と説明されてきたが,やはりそれだけでは動機としてあまりに弱い。しかしこの説明のように,「信長亡き後はお前を日本国の国王にしよう」と耳打ちされたのであれば,十分納得できると思う。


 だが,イエズス会の陰謀はさらにその上を行っていた。秀吉による光秀殺害も仕組んでいたからだ。秀吉は当時,中国地方に出兵していたが,信長討たれるの知らせを聞き,数日で大群を戻し光秀を討ったとされる。いわゆる「秀吉 中国大返し」である。
 しかし,当時は通信手段はなく,なぜ秀吉がこれほど速く情報を入手できたのかは謎とされていた。しかし,事前に「信長暗殺」が知らされていたのなら,これは謎でもなんでもない。
 そういえば,秀吉と毛利の和睦のタイミングもあまりに良すぎる。

 要するに,「主殺し」の悪人である光秀をトップに据えるのでなく,「主の敵を討った忠義者」をトップに据えなければ,その後の統治がうまくいくわけがない,と黒幕は考えたのだ。要するに明智光秀はイエズス会にとって,単なる捨て駒だった。
 であれば,かつて信長のブレーンとして活躍し,イエズス会とも密着していた武将達が,信長の死後,秀吉に何事もなかったかのように従属したのも納得できる話だ。彼らは信長の使えていたのでなく,金と武器を調達してくれるイエズス会の言いなりになっていただけのことなのだ。


 この説が正しいかどうかはこれからの問題だが,全ての事件,関係者全ての行動を整合的に説明できると言う点で,この本の唱える説の魅力に抗するのは難しいだろう。

(2004/04/12)

 

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