『講談 英語の歴史』(渡部昇一,PHP新書)


 現在,世界の共通語といえば英語だ。いくら話している人口が多くても,中国語は共通語ではないし,フランス語もスペイン語も「局所的には通じるけれど,世界的には使えない言語」という位置づけだと思う。そんな英語だけれど,世界の共通語になったのは案外新しいという。
 確かに,医学の世界に限定しても,私の二世代くらい上の医者達は,ドイツ語の単語を交えて医者同士で会話し,ドイツ語(の単語)でカルテを書いていた。そして,それより前の世代の医者達は,ドイツ語の論文を読み,ドイツ語で論文を書くのが当たり前だったはずだ。

 だが,今の医学界で使われているドイツ語は幾つあるだろうか。すぐに思いつくのはアナムネーゼ,ティッシュ(手術台),ティッシュトート(手術中の死亡),ムンテラ(もしかして,和製ドイツ語?)くらいだが,他に何があったっけ?
 私が研修医だった頃は,手術の皮膚切開創を「シュニット」と呼び,上の医者に「そこのシュニット,もうちょっと伸ばせ」なんて教えてもらったものだが,若い医者達にはもうこの単語は通じないだろう。


 この本では,ブリテン島に進出したゲルマンの田舎者(アングル人とサクソン人)が使っていたドイツ語の一方言だった英語が,どのような歴史的経緯を経て今日の英語となり,世界言語となった経過を解説した本である。
 といっても,ガチガチの学術書ではなく,まさに「講談」「雑談」「座談」の雰囲気で話が進んでいく。いうなれば英語に関する歴史と言語学の知識がぎっしりと詰まっているのだ。そして同時に,それらに付随する雑学がこれまた嫌というほど言及されているのだ。それはまさに「英語・トリビアの泉」である。よくもまぁ,一冊の本にこれほどの知識を盛り込めるものだと感心してしまう(本を書く身になると,こういうところがとても気になっちゃうのだ)

 私はこのコーナーで本を紹介するとき,本からの直接の引用はなるべく避けるようにしているが,この本だけは別である。とにかく,ここに書かれている知識を多くの人と共有したくなるのだ。


 例えば次のような知識たちだ。これだけでも十分「元を取った」気がするはずだ。


 ちなみに最後の「発音とスペリングの一致」で思い出したが,現在,韓国,北朝鮮では漢字を廃止してハングル語のみを使おうということになっていて,新聞も雑誌もハングル語が中心となっている。もちろん,学校教育もハングルだけである。

 で,どういうことになったか。

 当然のことながら,漢字が読めない人間だらけになってしまい,その結果として,わずか20年前の本,新聞記事,学術論文が読めなくない世代が発生し,過去の文献・書物が理解できなくなったという。つまり,フランシスコ・ベーコンが危惧した「文字(=文化)としての恒久性が失われる」ことを,図らずも実験してしまったわけだ。これは極めて深刻な事態だろう。


 そういえば日本でも第二次大戦の敗戦後,「日本語は漢字と平仮名とカタカナが混在しているために極めて非効率だ。非効率だから戦争に負けたのだ。だから漢字は廃止し,ローマ字だけにすべきだ」という主張があり,文部省内部で真剣に論議されていた。あるいは,著明な作家(誰でも名前を知っているくらい有名な人だよ)でも「日本語は効率が悪いからフランス語を公用語にしよう」と公言していた人があったと記憶している。

 今から考えると,そういう「日本語なんて使っているから戦争に負けたんだ」なんて連中の主張を入れなくて,本当によかったと思う。こういう連中の主張する教育を10年続ければ,「10年前の日本語で書かれた本を読めない」日本人が量産されるだけだ。文字の表記とか,使用する文字とかは思いつきで軽々に変えてはいけないのである。

 「漢字は異文化なので,民族固有のハングル文字を使おう」というのはつまり,「漢字は本来の日本語ではない。日本人なら漢字を使わずに大和言葉(やまとことば)を使おう」と言うのと同じだ。一見まともに思えるが,これがとんでもない話だ。大和言葉で全てを表現することは可能だが,極めて冗長になってしまうのだ。

 例えば,北朝鮮の新聞を見ていると,「あまたの水が流れた」という表現がよく出てくるらしい。これは「洪水」のことである。要するに「洪水」という漢語が使えないから,「洪水」という自然現象をハングルで表記するためには「あまたの水が流れた」と書くしかなくなるのだ。

 もしも大和言葉しか使えなかったらどうなるだろうか。「山脈」程度の漢語だったら「あまたなる山のつらなり」で済むが,「経済」とか「医学」とか「理科」だったら,無茶苦茶大変だろうな。「相対性理論」を表現するために,どのくらいの大和言葉の単語が必要だろうか?
 「創傷治癒は湿潤環境でのみ進み,創面を乾燥させると創傷治癒過程は停止する」なんてのを大和言葉で説明するとどうなるんだろうか。「創傷治癒」を大和言葉で表現するだけで,「きずつきてのち いやされて すこやかなるところのものに もどること」とか言うんだろうか? 「状態」を表す大和言葉がわからないと,これはかなり大変な作業である。「湿潤」を大和言葉で表現するのもかなり大変そうだ。これなら,最初から英語で言ったほうが楽だ。


 いずれにしても,非常に多くのことを考えさせ,教えてくれる本だと思う。「トリビア」のネタ本としても使えるし,読んで損はないと思うよ。

(2004/02/12)

 

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