『戦争の経済学』(ポール・ポースト,バジリコ株式会社)


 戦争について冷静な討論をすることは非常に難しい。戦争を否定するにしろ肯定するにしろ,戦争を論じる人にはあらかじめ自分の立場というか立脚点が決まっていて,戦争否定から戦争賛美までいろいろな考えの人がいても,自分の考え(立脚点)は絶対に変えないと言う点で,どの考えの人も共通している。つまり,戦争についての討論は一種の宗教論争の様相を呈し,正常な意味での「討論・論争」はなかなか生まれにくいのが現状だ。戦争についての考えの基本には,その人の人格や思想が反映され,いわば全人生が込められているようなものからだ。


 そういう目で見ると,本書の視点は非常に新鮮だ。「戦争はペイするものか?」,これが本書の唯一のテーマである。極めて単純明快であり,実も蓋もないといえばそれまでだが,こういう基礎的データがなければそもそも何も始まらないし,戦争について考えたり論じたりする際にも,このような数字は絶対に必要だ。その意味において,本書の視点はこれまでありそうでなかったものではないかと思う。

 とは言っても,本書は特殊なことをしているわけではない。公に手に入るデータだけをもとに,ごく初歩的なマクロ経済学,ミクロ経済学の手法を使い,それらを分析しているだけで,愚直という感じさえする。経済学の教科書にありがちな数式の羅列はないし,グラフの説明もごく常識的で,経済学の知識がなくても十分に理解できる内容となっている。また本書は基本的に「経済学の教科書」であり,各章の最後にまとめがあり,練習問題が用意されていて,実際,大学で経済学のテキストとしても使われているらしい。要するに,奇を衒ったところが全くなく,極めてオーソドックスな本だ。


 だが,そこから導き出される事実の分析は圧倒的だ。本書では,戦争経済の理論,アメリカの戦争を例に取ったケーススタディー,防衛支出と経済,というように戦争をめぐるさまざまな要素を分析し,個々の要素を明らかにすることで,戦争という巨大な存在の本質を見事に暴き出している。やはり,明確な数字は強いなと思う。


 「戦争は国の経済を活性化する」という概念を「戦争の鉄則」と呼ぶらしい。実際,「経済成長が得られるのだから,戦争は必ずしも悪ではない」なんていうように使われることが多いのは皆様ご存知の通りだ。

 しかし本書によれば,20世紀以降のアメリカが参戦した戦争を分析すると,第一次大戦,第二次大戦,朝鮮戦争では戦争後に経済の成長が得られたが,その後の戦争では得られず,「戦争の鉄則」は成立していないと言う。つまり,朝鮮戦争以後の戦争は経済的にペイしていないのだ。
 経済的にメリットのある戦争の条件は,開戦時点での経済成長が低く,戦争が長引かず,本土で戦闘が行われない,戦時中の巨額な支出が持続していることなどであるという。反対に,ベトナム戦争,湾岸戦争,イラク戦争ではこの条件のいずれかが欠落し,経済活性化効果が得られていない。「戦争は始めるのは簡単だが,止め時の判断が難しい」という言葉があるが,恐らく言っていることは同じだろう。


 その他の分析についても,興味深い項目が目白押しなので,私が面白いなと思ったものを列記してみる。

 これ以外にも,膨大なデータがちりばめられていて圧倒されるのだが,特に,「国際闇取引での核物質間取引の実勢価格」とか「F-16戦闘機の取引構造とその実態」などの,通常であればまずお目にかかれないような数字もさりげなく(?)明確に提示されていて,それだけでも読む価値があると思う。


 このように素晴らしい本なのだが,山形浩生氏の翻訳でちょっと気になる点があった。この山形氏は翻訳のほか評論なども多数発表されていて,その論評の切れ味の鋭さといい,明確なスタンスといい,とても共感する部分が多く,好きな文筆家であり評論家である。本書の翻訳も明晰で読みやすく,理解しやすいものとなっているが,ただ一点,接続詞の「でも」が多すぎて気になった。

 逆接の接続詞といえば,「しかし,だが,でも」などが使われるが,論文では主に「しかし」と「だが」が使われ,「でも」が使われることはほとんどない。なぜかというと,「でも」は基本的に話し言葉だからだ。本書は経済学の教科書であり専門書である。だから,逆接の接続詞としては「しかし」を使って文章の論理関係を明確にする必要があるはずだ。しかし,本書では次のような文章が多いのだ。

 「徴兵制の社会的費用と,ベトナム戦争の不人気とが徴兵制廃止をもたらした。でもベトナム戦争による軍のダウンサイジング,1970年代のインフレ,レーガン時代の軍拡競争のおかげで(攻略)」

 「たとえば需要の多い職務に対しての報酬,特別任務手当,危険手当などだ。でも,これらの報酬は民間部門での報酬と比べてもどうなんだろうか。」

 特に後者の文章はほとんど話し言葉であり,文章の内容と齟齬をきたしているように思う。実際,本書の他の部分を見ても,逆接の接続詞はほぼ全て「でも」で統一されており,これはかなり違和感を感じた。

 同様の言葉の選択の問題として,科学論文であれば「恐らく」と使う部分で本書では「たぶん」という言葉を頻用しているのも気になった。恐らく,講演などで耳で聞いている分には「でも」も「たぶん」も気にならないと思うが,科学論文や教科書の文章としてこれらの単語は違和感があるし,何より,文章の論理構造を甘く見せてしまう原因にしかならないと思う。恐らく,読み易さを優先しての単語の選択だったのかもしれないが,本書の内容にはあまり適していないように感じた。

(2008/02/07)

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