『宇宙を復号する −量子情報理論が解読する,宇宙という驚くべき暗号』
(チャールズ・サイフェ,早川書房)


 恐らく,2007年の私の読書歴の最後になるであろう本だが,実に壮麗な物理学書である。この本の真髄である情報理論の部分を理解するのはちょっと大変だが,そのあたりが乗り越えられれば,以後はとても面白く読み進められるはずだ。最後のブラックホールと情報の絡みのあたりがまた難しいが,それ以外は,量子力学の基礎的知識があれば理解は難しくないと思う。一般向けのポピュラーサイエンスの本としてはかなりハードルが高い部類だと思うが,量子力学と相対性理論を情報理論という面から統一的に説明する面白さは無類のものだし,暗号解読に端を発した情報理論があらゆる基礎物理学を結びつけ,情報は宇宙全体に満ちているというイメージが新鮮であり感動的だ。少なくとも,宇宙という極大の世界と量子という極微の世界が「情報」という概念で一体となり,それまでの宇宙についての見方が全く新しくなることだけは保障しておく。科学好き,物理好きは是非読んでほしい。

 ちなみに,以前ちょっと紹介した『宇宙をプログラムする宇宙 −いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?−』(セス・ロイド,早川書房)という量子コンピュータについての本だが,「量子の状態を表すビット」という概念が私にとってはわかりにくくて難解なため読書を中断していたが,この『宇宙を復号する』を読んで「ビット」の基本的な概念が(なんとなく)理解できたため,もう一度挑戦してみようと思っている。

 また,以前に紹介した『メタマス!』という数学書の中で,プログラムの圧縮の部分で著者が言いたいことがちょっとわかりにくかったが(もちろん,圧縮プログラムのアルゴリズムについてはある程度知っているけど),それも本書を読んで氷解した。やはり,いろんな本を読んでみるものだなと思う。


 まず本書は序文で次のように説明する。

 熱力学はすべての根底にある情報についての法則だ。相対性理論は極度に大きな速度で動いている物体や重力の強い影響を受けている物体がどのように振舞うかを述べるものだが,実は情報の理論である。量子論はごく小さなものの領域を支配する理論だが,情報の理論である。(中略)情報はただの抽象的な概念ではなく,ただの事実や数字,日付や名前ではない。物質とエネルギーに備わる数量化でき測定できる具体的な性質なのだ。

 極めて力強い宣言であり魅力的だが,「本当なの? それって大風呂敷じゃないの?」という印象を持ったのも事実だ。だが本書を読み終えると,それが決して大風呂敷でなく,情報という実在的存在がどのようにして宇宙を支配しているかが理解できるのだ。


 そういう「情報」を読者に理解してもらうために,本書は情報理論の成立までの歴史を丹念に説明する。それが暗号解読の歴史だ。

 暗号作成と解読は人類の歴史とともにあるが,その共通点は暗号文に含まれる冗長性であり,冗長性を付加することで暗号が作られ,それを取り除くことで暗号が解読できることが示される。そして,例えば会話文の中に冗長性があるから,脳が無意識のうちに意味を解読している,なんてことも書かれたりしている。そして暗号解読の歴史でもっとも有名なエニグマがいかにして解読されたかが説明される。解読したのはチューリングだが,彼の解読課程を知ることで,人間が相手に何か伝える,という行動が何によって実現されているかが見えてくる。このあたりの説明は実に明快。

 そして,18世紀末のフランスに舞台を移し,ラヴォワジェの有名な実験から,熱とエネルギーの関係が明らかにされ,そこから熱力学第一法則,第二法則として結実した過程が生き生きと描かれていく。そしてそれが,ボルツマンの「熱力学的宇宙の死」に結びつき,マックスウェルの悪魔に結びついていく。実際,マックスウェルの悪魔のパラドックスをエントロピーの概念だけで否定するのは難しいのだが,この悪魔を完全に葬り去ったのは「情報」という概念だった。


 そして,情報理論のヒーロー,シャノンの登場。彼は葉1940年代にベル研究所に就職し,そこで,電話回線の容量はどこまで大きくなるかという問題を研究する。要するに,通話同士が干渉しあわないようにして同じ回線に同時にいくらまで詰め込めるのか,それに上限はあるのか,という研究であり,電話回線がまだ未発達だった当時には,解決の手口すら見つけられていなかった。それに対しシャノンは,「情報とは何か」という問題を真正面から追求するという一見遠回りの方法論を取る。そして彼は,人間が他の人間に何かを伝える場合,どうやって伝えているのかという情報伝達の本質を見抜き,明らかにする。そして,言葉は記号の連なりであり,記号はビット(1か0か)の連なりに書き表せ,それがメッセージの中に情報がどれだけあるかを計測できる,という理論につながることになる。そして,熱力学で導入されたエントロピーという概念が,実は情報理論の要になることが明らかになり,エントロピーと情報が結びつく。

 そして,アインシュタインの相対性理論が登場するが,その前に本書は,光は波動なのか粒子なのかについての実験と論争の歴史を俯瞰し,相対性理論がなぜ提案されたのか,それはどのようにして実証されたのかを自然な流れの中で説明する。その上で,時間と空間が観察者によって変化する,という相対性理論の本質部分を「情報」という面から再解説する。

 だが,アインシュタインは量子論を嫌っていた。そのために彼はある思考実験を提案した。EPR対である。この思考実験がもたらすパラドックスは量子論に深刻な疑問を投げかけるものだった。光より早く情報が伝わっていなければ成立しないからである。これが「量子のからみあい」と呼ばれる問題だ。

 光は粒子であり波である。1個の電子が二つの経路を同時に進み,干渉縞を作る。量子は同時に2箇所に存在できるし,相反する状態(例えば,上向きのスピンと下向きのスピン)を同時にとっている。0か1か,でなく0でもあり1でもあるのが量子だ。それどころか時間軸を逆走することすらする。これが「重ね合わせ」と呼ばれている量子力学の基本原理だ。その基本原理をEPR対に適応すると,とんでもない現象が起きてしまうのだが,このパラドックスはその後なかなか否定できなかった。量子論嫌いのアインシュタインの渾身の一撃だった。


 このパラドックスを解決し,相対性理論と量子論の両方を結びつけ,両者が共通の土台の上に築かれていることを示したのが,シャノンの情報理論をさらに押し進めた量子情報理論だった。量子論の古典的パラドックスとして有名なシュレディンガーの猫も,この理論でようやく生きているのか死んでいるのかを選ぶことができた。それどころか,現実の巨視的存在(例:猫)になぜ量子現象が起きないのか,という本質的な疑問についても,極めてクリアカットに答えてくれるのである。以前,『時間はどこで生まれるのか』という本を紹介したが,そこではマクロとミクロの世界があり,マクロの世界だから時間の矢(=過去から未来への一方通行の時間の流れ)が成立するという風に説明されていたと記憶しているが,それをさらに一歩進めるのが,本書で紹介されているエントロピーと情報による説明だ。要するに,時間の存在は量子情報理論でより明確に説明できるのだ。

 そして本書はさらに論を進め,宇宙自体が宇宙に関する情報を集め,測定し,それを伝達していると説明する。宇宙の何もない真空状態でも,「真空の揺らぎ」として常に粒子が生成されている。そして宇宙は宇宙自体の情報を測定する。それを説明する文章は美しく,イメージは詩的ですらある。ここから,量子世界と古典的力学世界が一体化していることが説明されるのだ。要するにミクロとマクロの世界を分けて考える必要がなくなるのだ。このあたりの説明もとてもわかりやすかった。

 さらに最後の章では,ブラックホールの内部構造,事象の地平とブラックホールに飲み込まれる粒子の持つ情報の運命が説明され,それがさらに平行宇宙の存在について言及され,EPR対のパラドックスが見事に解明される。恐らくこの部分が本書の白眉だろう。


 恐らく,本書を初めて読むと,エントロピーと情報の関係の部分で引っかかるはずだ。実際,私もここでちょっと足踏みした。情報の意味が直感的に理解しにくいためだ。しかし,そこはとりあえず無視して最後まで読んでほしい。付録があって,ここで両者の関係が見事に説明されているからだ。メッセージが持つ情報量と,そのメッセージのエントロピーは,情報の受け手と送り手で異なっているためで,実は同じコインの裏表の関係だ,という説明は明快である。この説明を最後の付録に持ってきたのは,多分,最初にこれを置くと数学的な説明部分が長くなりすぎ,読者が付いて来れなくなることを恐れたためかと思うが,その配慮は正しかったようだ。

(2007/12/25)

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