『ナノカーボンの科学 セレンディピティーから始まった大発見の物語』
(篠原久典,講談社ブルーバックス)


 これもとても面白かった。出だしこそ専門用語がろくな説明もなしに登場するためとっつきにくいが,そこを我慢して読み進めるとさながら冒険小説のような面白さなのである。私は一度読み通した後,あまりの面白さに改めて全体を読み返した。偶然から大発見をした者,同じ現象を見ていながらそれを見過ごした者,論文投稿が数日遅れたために第一発見者の栄冠を得られなかった者たちの姿が淡々と時系列で説明されているが,その冷静な筆致が読むものに,科学の大発見の現場を生き生きと伝えるのだ。

 科学には時々「世紀の大発見」があり,それに関して次々と新しい発見が報告されることがある。19世紀半ばから後半にかけての細菌学,19世紀後半から20世紀初頭の電磁気学,20世紀初めの量子力学とその後の素粒子理論などがそうだろう。医学で言えば免疫学やがん治療に関する研究がかつてそうだった。そして20世紀の最後の10年から現在にかけて熱狂状態が続いている分野がナノテクノロジーである。その発展の様子を克明に,日付入りでまとめたのが本書だ。著者はこの分野における第一人者であり,フラーレン・ナノチューブ学会の会長とのことだ。

 ちなみに,タイトルの副題にある「セレンディピティー」とは「偶然の発見」という意味であり,18世紀に書かれた童話に登場する言葉らしい。


 本書に登場する主人公はフラーレンという炭素原子60個からなら直径1ナノメートルのサッカーボール型クラスター C60と,直径1ナノメートル,長さ1マイクロメートルの炭素からできたチューブである。前者をフラーレン,後者をカーボンナノチューブと呼ぶ。

 炭素は宇宙で最も多い元素の一つだ。もちろん地球にも豊富に存在するし,生物の体を作っている最も重要な元素の一つである。だが,炭素の単結晶というと20世紀後半までは黒鉛とダイアモンドの二つしか見つかっていなかった。それがなんと,20世紀の最後の20年にいきなり二つも見つかったのだ。おまけにその二つとも,セレンディピティー,つまり偶然に見つかったのである。しかもそれらは,それまで考えられなかったような構造をしていて,しかも,既存の分子にない驚くべき性質を備えていたのである。それで一挙に,世界中の科学者の研究者魂に火が付き,膨大な数の研究が行われ,日々新しい知見が得られているのである。


 フラーレンは星間物質の研究者の実験から発見された。当時,星間物質として謎の直線状炭素分子の存在が示唆されていたが,その正体を突き止めるために,シリコン・クラスター精製実験をしていた科学者に共同実験を持ちかけたのが発端だった。要するに,シリコンでなく炭素でクラスターを作れないかと持ちかけたわけだ。持ちかけられた方はもちろん気が進まない。そして半ば嫌々ながら炭素で実験を始めたのだろう。そこで,分子量720,つまり炭素60個からなるクラスター(原子や分子より大きく,固体よりは小さいサイズのもの)にピークがくるというデータが得られたのだ。

 しかし,炭素60個からなる安定した構造なんて前代未聞である。どのような形をしているのか皆目見当が付かないのだ。どうやら球状をしているらしいと見当は付いたが,その先が進まない。一人の研究者は店で60個の球形ガムと爪楊枝を買い込みガムに爪楊枝を刺して立体を組み立てようとし,もう一人の研究者は炭素は六員環をしているだろうと予想して6角形の紙を組み合わせるが,どちらもうまくいかない。

 そこで一人がスタードームという多面体模型を息子に買ってやったことを思い出し,六員環に五員環が組み合わさっていたことを思い出し,試行錯誤の末,ついに一つの球体を作る。なんとそれは,サッカーボールの形そのものだった。


 一方,カーボンナノチューブの発見もいわば偶然の産物だった。当時,フラーレンが本当にサッカーボール構造をしているのかを確かめるために大量のフラーレンを作る必要があり,さまざまな方法が案出され(それらも偶然見つかったものが多い),その一つが日本で開発されたアーク放電法だった。研究者たちは大量に手に入るようになったフラーレンでさまざまな研究を始めたが,一人,アーク放電法で使われる陰極の先端に非常に堅い堆積物ができていることに気がつき,それをとりあえず電子顕微鏡で見てみることにした。日本の電顕の研究者である。そして彼は,直径4ナノメートル,長さ1ミクロンくらいのチューブ状の構造物を発見する。それはまさに,人間が作ったもっとも細いチューブ,カーボンナノチューブだった。

 カーボンナノチューブは構造の違いにより,金属の性質を持ったり半導体の性質を持つことが予想され,数年後それが証明されることになる。現在,カーボンナノチューブを電界電子放出源として使えることがわかっているが,これでディスプレーを作ると,現在より明るくて薄く,しかも消費電力が大幅に小さいテレビが作れると予想されているらしい。同時に,カーボンナノチューブを半導体として電子回路を組み立てられるようになると,現在のシリコン半導体の1000倍以上の密度が得られると予想されているらしい。


 そういう夢の物質の大発見をしたのはわずか数人の科学者だったし,しかもいずれも偶然の産物なのである。それが何より痛快だし,「科学のロマン」という言葉が決して死語ではないことを教えてくれる。彼らは自分の目で見たものを自分の頭で捉え直し,優れた独創力と想像力を駆使し,並外れた執念で追求したからこそ,偶然という女神が彼らに微笑んだのだろう。科学の醍醐味はやはりこういうところにあるのだと信じたい。

 実際,本書の著者(言うまでもなくナノカーボン研究の第一人者だ)は金属内包フラーレンを作る実験に失敗したときに,クモの巣状の変なススが箱の中にできていることを観察していたことを正直に書いている。当時はフラーレンで頭がいっぱいのためこのススは気にも留めなかったが,実はこれが数年後に発見されるカーボンナノチューブそのものだったのだ。つまり,金属内包フラーレンを作るという実験に失敗したおかげで,カーボンナノチューブを発見するという偶然に,おそらく世界で一番近いところにいたのに,それをみすみす見逃したのだ。「偶然は用意された心にのみ,幸運をもたらす」というパスカルの言葉の重みがわかる。


 そして,カーボンナノチューブの第一発見者である日本人研究者の言葉がいい。

「私は競争をなるべく避ける。世の中には優秀な人はごまんといるので,その人たちと同じ土俵に上がって,早い者勝ちというのはしんどい。・・・そう,みんなが騒いでいるところへは行かない。別なところへ行けばいい」

 彼が言うように,誰もやっていないものを最初にやれば第一人者になれるのは事実だし,確実だ。だが,実現するのは一番難しい。それが問題だ。

(2007/09/06)

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