『時間はどこで生まれるのか』(橋元淳一郎,集英社新書)


 時間はなぜ過去から未来へと一方向にしか流れないのか,なぜ過去に遡れないのか,なぜ未来は未知なのか,そもそも時間の流れとは何なのかという根源的な問いに対し,真正面から立ち向かった壮麗な書である。内容はかなりハードで,全て理解しようと思ったら数学,相対性理論,量子力学などの基礎的知識は不可欠だだろう。しかし,そういうハードな部分を乗り越えて読み終えたときに得られる知的感動はまさに圧倒的だ。

 ちなみに,余計なことであるが,この本の読み方としては,まず最初から最後までを我慢して読み通そう。「空間と時間は,空間が虚数軸,時間が実数軸である」なんてところも意味がわからなくても無理やりわかったフリをして読み通す。そして次に,本書の最後にある付録を読む。ここに「空間は虚数で時間は実数」などの感覚的に理解が難しい部分について,かなりわかりやすく数学的(物理学的)説明があり,ここがすんなりと理解できたらもう一度,本文を最初から読み直すのだ。おそらく,多くの部分が霧が晴れるようにわかってくるはずだ(・・・多分)


 まず本書は,われわれが当たり前のこととして感じているさまざまな物理現象(温度,色)が,原子レベルになると意味がなくなることを説明する。色は単なる電磁波の波長の違いだし,温度は莫大な数の分子の運動エネルギーを「熱」として感じているだけで,原子一分子がいくら激しく運動していても,人間はそれを熱として感じ取ることはできない。まして,一個の原子が熱いか冷たいかを論じても意味がない。

 では,時間と空間はどうか。これは特殊相対性理論が「宇宙において一定なのは光の速度のみであり,時間も空間(長さ)も伸び縮みする」ことを明らかにした時点で,時空に対する考え方が大きく変わった。それは古典的物理学から見ると奇妙な現象だったが,その後のあらゆる観測データが相対性理論を支持し,それが事実であることが証明された。

 それは確かに,従来からの時空感を大きく変えるものだったが,それでも私たちは感覚的に受け入れられる範囲の変化だったと思う。それは,相対性理論の扱う世界は「マクロの世界」,つまり私たちが暮らしている世界と同じ次元だからだ。だから,相対性理論は難解だが生理的に理解できる範疇にある。


 しかし,不確定性理論,量子力学,素粒子理論はある意味,人間の日常感覚を大きく踏み越えている。それらは,私たちの「マクロの世界」とは全く共通点を持たない「ミクロの世界」を扱う理論だったからだ。だから,現実の世界(=マクロの世界)に置き換えて理解しようとする「無意識的な」人間の考え方そのものが通用しないのである。

 まず,不確定性理論はミクロの粒子の位置と速度は同時に確定できないことを明らかにしたが,その後,「粒子の位置と速度は実在しない」こと,そして「エネルギーが確定している量子系においては,時間の測定そのものが不可能」になることが明らかになり,それどころか「時間(という物理量は)は実在しない」となったのである。そして,あらゆる観測データは「時間が実在しないこと」を証明してしまったのだ。「ミクロの世界」では時間そのものが存在しないのである。相対性理論の世界に時間が登場したのは単に,相対性理論がマクロの世界を扱っていたためだったのだ。時間が存在するのはマクロの世界だけなのである。

 さらに,電子と陽電子(反粒子)が衝突させるとどちらも消滅してガンマ線を生じるが,この現象を物理学的・数学的に説明すると,「反粒子は未来から過去に旅する粒子」として処理するしかないし,実験的にもそういう解釈が正しいのである。つまり,ミクロの世界では時間は実在しないばかりか,時間の逆転すら当たり前なのだ。

 さらにミクロの世界では,私たちの論理構造の基本である因果律も排中律(AがBでないならば,BはAでない)でさえも成立しないのである。「シュレーディンガーの猫」というパラドックスは,猫というマクロの世界と電子というミクロの世界を因果関係で説明しようとしたところに根本的な間違いがあったのだ。


 しかし,私たちは「時間」をきわめて密接に感じているし,5分間待ってといわれれば時計を見ながら5分時間を潰すし,朝9時から試験ならそれに合わせて勉強する教科の時間配分をする。時間は実在しない,といわれても納得できるわけがない。私たちは時間で暮らしているではないか。「時間は実在しない」というのは到底受け入れられるものではない。


 では,時間は何が生み出しているのか。それは人間の感覚だ,と本書は説く。それも,経験的概念ではなく,生まれながらに持っているア・プリオリな感覚だ。本書ではそれを,「パソコン購入時にすでにインストールされているOSに備わっている機能」と説明している。そしてこのOSはきわめて古く,「時間の流れ」という感覚なしには生命体の生存は不可能だったというのだ。それが生命進化の過程でより緻密なものとなり,地球環境の中で生き抜くために世界を系統立てて解釈するようになり,その中に秩序を見出し,因果律や排中律といった考え方の基本を作り,やがてそれが,時間と空間に対するア・プリオリな感覚となったのだ。要するに,生命そのものが「時間」を生み出したのだ。

 地球での最初の生命誕生は,深海底の熱水噴出孔周辺の泥の中だったというのが,現在ではほぼ定説となっている。そこですべての生命体の祖となる細胞,LUCAが生まれた。LUCAが増え,その変種も生み出されるようになると,それらの間での相互作用が始まる。つまり,攻撃を受けたり,捕食する相手を見つけたりという外部からの刺激である。


 ここで,単細胞の生命体にとっての「過去と未来」という問題が生じる。刺激は常に外部,つまり「過去」からの情報である。それに対し,逃げたり捕食したりするという行動は「未来」に向かってのものである。右に逃げるか左に逃げるか,逃げずに相手を襲うか,そういうさまざまな可能性の中から,たった一つの選択枝を選び,未来に向かって行動する。そういう,過去と未来の接点にいるのが「私」である。外部からどんな干渉があるか,いいかえれば,過去から何がやってくるかは自分には制御できない事象である。自分にできるのは唯一,行動,つまり未来を決めることである。そこに「生きたい,生き延びたい,死にたくない」という生命体最初の「意思」が生まれる。いかに単細胞のLUCAであろうと,こういう「意思」なしでは生き延びることは不可能だったはずだ。そしてこの「過去からの干渉⇒意思決定⇒未来への反応」という反転不可能な流れこそが,「時間」という感覚を生み出したのだ。本書はそう説明しているが,まさに感動的である。

 そしてさらに,熱力学第二法則,つまりエントロピー増大則と一体になることで,本書の考察はより壮大なものと変貌する。

 アインシュタインが相対性理論を構築する際に理論的根拠としたのは熱力学第一,第二法則だったことはよく知られている。要するに,この二つが宇宙普遍の法則だと考えたわけだ。このうち第二法則は,あらゆるものは秩序ある状態から無秩序に向かう(=エントロピーは増大する)というものであり,時間の不可逆性そのものを示している。しかし,著者によると,思考実験してみるとわかるが,「秩序・無秩序」の判断そのものに人間の価値判断が入っているのである。要するに,人間であるがゆえのバイアスがかかるのだ。


 熱力学第二法則はマクロな世界だからこそ成立している法則だ。なぜなら,多数の原子(分子)が関与するマクロの世界では,秩序ある状態に比べ無秩序な状態のほうがはるかに多く,確率的に無秩序に向かうからである。これは数学的真理だ。

 ではなぜ,人間は秩序ある状態に価値を見出すのだろうか。それは,生命とは秩序そのものだからだ。生命体は秩序を維持できているから生きていけるのであり,秩序を維持できなくなったとき死を迎える。生きるということは,常に無秩序にしようとする外部からの攻撃をはねつけ,秩序を維持することである。だからこそ私たちは秩序ある状態を価値あるものとして捉えている。


 単細胞生物も多細胞生物も,現在生き残っているものは秩序維持ができているものであり,進化の淘汰圧はそういう能力に長けた生命体を選択し,それが「生き残ろうとする意思」を生み出した。「意思的に」秩序を維持するほうが,意思なき秩序維持よりはるかに効率的だからだ。

 膨大な分子からなる生命体はそのことだけでも秩序維持が困難だ。ここの分子は常にブラウン運動の霍乱に晒されるからだ。まして,秩序を壊そうとする外部からの圧力は常に襲ってくる。この外部圧力(=過去)は自分では制御不能だし,運命として受け入れるしかない。だが,それに対してどう行動するか生命体が「意思的」に自由に選択できる。そうやって生命誕生以来,生体という最高度の秩序を維持してきたのだ。


 その自由こそが未来だ,本書はそう高らかに宣言する。

 

(2007/06/26)

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