《戦場のアリア Joyeux Noel》 (2005年,フランス/ドイツ/イギリス)


 初めに断っておくが,私は音楽が主役の映画には非常に評価が甘い。素晴らしい音楽シーンがあっただけで,点数を一段階上げてしまう。だからこの映画にも非常に甘い評価をしている可能性がある。

 とにかく,この映画の音楽の使い方は最高である。冒頭の密やかな聖歌から,最後の兵士たちを乗せた列車から低く聞こえる歌声まで,ほぼ完璧なのである。そして,音楽に象徴される人間の善意や精神の崇高さと,その音楽の象徴であるハーモニカを踏みにじる軍靴の非人間性の対比はまさに強烈だった。

 映画としてみれば,登場人物たちがやや類型的だったりするし,戦場にソプラノ歌手(もちろん女性)が登場するのは問題があるし,ソプラノ歌手役のダイアン・クルーガーが本職の歌手でないために,歌声(もちろん,本職の歌手が歌っているものだろう)とクルーガーの口の動きが微妙にずれている(要するに,クチパクってやつね)という,致命的な欠点もある。


 しかし,そんな欠点があっても,この映画にはそれを凌駕する美点があるし,戦争と末端で闘う個人である兵士の関係をもう一度見直させる力は確かに持っていることだけは間違いないと思う。大傑作ではないけれど,見事な秀作だと思う,

 この映画は第一次世界大戦の時の実話を元に作られたものだ。その実話とは,1914年のクリスマス前夜,ドイツ軍の最前線を慰問に訪れたドイツのテノール歌手の歌声にフランス側の将校が拍手を送り,それに感激したテノール歌手が制止を振り切ってフランス側に駆け寄って挨拶し,それがきっかけで両軍にクリスマス休戦の協定が生まれ,各国軍の兵士たちの交流したというものだったそうだ。


 映画の舞台になっているのはフランス北部の村。ここで数十メートルの距離を隔てて二つの塹壕が掘られ,片方にはドイツ軍が陣取り,もう片方にはフランス軍とそれを助けるスコットランド兵が立て籠もり,連日,激しい銃撃戦が続いている。両者ともに決め手に欠き,膠着状態のままクリスマスを迎えようとしていた。

 事件の発端は,スコットランド軍の神父がバグパイプで奏でる故郷スコットランドの歌だった。初めはバグパイプのメロディーにおずおずと低い声が加わり,次第にその歌声はスコットランド兵士全体に拡がり,地を揺るがすような大合唱となった。そして今度は,それにつられるように,ドイツ軍に兵士として召集されていたテノール歌手がハーモニカを伴奏に「聖しこの夜」を歌う。その朗々と響く歌声にスコットランド側からバグパイプのオブリガートが加わり,歌い終わったとき,双方から歓声が上がる。「聖しこの夜」の至純のメロディーが戦場を清めてゆく。

 そして,バグパイプが別のクリスマスの歌(題名,ちょっと思い出せません)を吹き,それにのってテノールが歌い出す。彼は小さなクリスマスツリー(なぜ戦場にツリーがあるかは映画を見れば判ります)を手に持ち,司令官の制止を無視して塹壕から抜け出し,両者の中間地帯に進む。そして歌い終わってツリーを真ん中に置き,「フランス軍の皆さん,こんばんわ」と挨拶する。それに対し,「残念だが,俺たちはスコットランドの兵士さ」という笑い声があがり,やがて3軍の司令官たちが戸惑いながら歩み寄り,「クリスマスイブの夜にまで殺し合いをすることはない」と休戦の話し合いをするのだ。

 誰もが知っている「聖しこの夜」のメロディーが両軍の兵士たちを一つにする。


 なぜイエスはクリスマスに生まれたのか。それは冬至だからだ。もっとも夜が長い闇の中で救い主が生まれたのだ。その誕生を祝うのがクリスマスだ。

 せめて今晩だけは銃を置こう,嬰児イエスは殺し合いを望んでいなかったはずだ。嬰児イエスのために,今晩だけは殺し合いを止め,クリスマスを祝おう。

 やがて,兵士たちが集まり,片言の言葉と身振りで会話が始まり,フランス軍はシャンパンを振る舞い,ドイツ軍は食料を提供し,花火を打ち上げる。そして即席の祭壇が作られ,神父がクリスマスを祝う言葉を伝え,地上の天使がクリスマスの聖歌を静かに歌い,もっとも荘厳にして静謐な,そして感動的なミサが執り行われる。


 翌日,中間地帯に横たわる死体を皆で丁寧に葬り,故郷や家族の話やサッカーに興じあう。

 休戦が終わった26日,ドイツ側に「10分後にフランスの塹壕を攻撃する」という連絡が入る。すると彼らは自分たちの塹壕にフランスとスコットランド兵士たちをかくまい,爆撃が終わるまで一緒に身を潜めあう。その後,フランス側がドイツ側を爆撃すると判り,今度はドイツ兵がフランスの塹壕に隠れて命を救われる。国同士は闘っているが,友となった人間の死は誰だって見たくない。


 皆は戦争のことを忘れたかった。昨日までの敵は友になってしまった。だが,戦争は兵士たちを忘れてはくれなかった。

 当初,両軍の司令官たちは「この二日間は敵側からの攻撃はなく,こちらからも攻撃しなかった」と報告したが,やがて家族宛の手紙の検閲から事実を司令部が知ってしまう。兵士たちが敵兵と仲良くなり,お互いにかくまうという最大の罪を犯していたことが知れてしまう。

 敵を殺さない兵士は兵士ではない。やがてこの部隊はバラバラに解体され,それぞれ別の最前線に送り込まれることになった。最後のシーンで低く聞こえてくる兵士たちの歌声は誇り高く,そして悲痛だ。それはまさに,人間の尊厳をかけた歌声なのだ。

 国家と戦争,国家と個人,国家と軍隊,軍隊と兵士という問題を見るものに突き付けてくる作品である。


 この映画の最大の問題点は,テノール歌手の妻であるソプラノ歌手を登場させた点だろう。もちろん,史実に彼女は登場しない。彼女が登場したために「戦争と個人」というこの映画の主題に「夫婦の愛」が絡んでしまい,焦点がぼやけてしまったことは否めないだろう。

 この映画の作り手側が彼女を登場させた理由とは恐らく,「天上の声」がミサの場面に必要だと考えたからだろう。事実,彼女が赤いフードを脱いだ瞬間,彼女の髪は光輪のように輝くし,彼女はこの戦場の奇跡を演出するための天使役だったのではないかと思う。

 しかし,それでもまだなお,彼女を登場させず,徹頭徹尾,男たちのドラマにして欲しかったという気はする。もしもどうしても「天使の声」が必要なら,「フランス軍に所属していたファルセット歌手がいて・・・」という設定にして,彼が思わず歌い出し,という設定にしても不自然さはなかったと思うし,より中性的なファルセットの高音の方が,より「天使の歌声」に近くなったと思う。もっともそうすると,クリスマスツリーが出てくる必然性がなくなってしまうという問題が生じるのだが・・・。

 それと《戦場のアリア》という邦題にもちょっと問題がある。あの場で歌われるのはオペラのアリアでないからだ。やはりこれは《戦場のノエル》でよかったと思う。


 さて,この映画を離れて,戦争についてちょっと。

 ヨーロッパや日本の戦争の歴史を見ると,ある時期までは単なる陣取り合戦であって,敵兵を殲滅することは目的ではなかった。兵士たちも金で雇われただけであり,例えば日本の戦国時代でも雑兵は農民であり,給料の高い方に雇われていただけだったらしい。だから,互いの兵士を本気で殺し合うと金がかかってしょうがないから,そのへんは「なあなあ」というか阿吽の呼吸があったらしい。

 それが一変するのはナポレオン戦争からだ。ナポレオン軍はなぜ無敵だったのか。それは「国民軍」だったからだ。ナポレオンが登場する前まで,世界中には「国」という概念もなければ「国民」というものもなかった。だから,戦争といっても民衆にとっては「うちの殿様とよその殿様が喧嘩してるよ。金をくれるっていうから,ちょっくら戦に行って来るだよ」くらいの感じだったらしい。

 そこに「フランス国民」という概念を登場させ,「フランスを守るため,祖国を守るため」という目的を掲げたのがナポレオンだった。金のためでなく,「祖国」のために闘えと命じられたからこそ,ナポレオン軍は命を捨てて闘ったし,倒されても倒されても前進した。国のために闘って死ぬのは最高の名誉になった。しかもナポレオンは徴兵制という制度も考案している。「祖国を守るための名誉ある戦士」だからただ同然に雇えるし,兵士が何人死んでもすぐに補充できる。ナポレオンが軍事の天才たる所以である。

 当時のヨーロッパにはドイツもオーストリアもイギリスもスペインもなかった。地方の貴族や豪族が,「このあたりにはなんとなく似たような言葉を喋っているけど,山の向こうには違った言葉を喋る連中がいるらしい」という集落の延長線上の「国」しかなかった。そこに新たに「国家」が発明され,「国のために戦う国民軍」が登場したのである。こういう国民軍に勝てるわけがない。
 ナポレオンに負けてばかりでは悔しいから,ナポレオン軍の強さに学び,次々とナポレオンが発明した「国家と国民」という制度を取り入れて中央集権国家に変身していった。そうしないと戦争に勝てないからである。

 ちなみに,フランス語というのはナポレオン時代に人工的に作られた言語である。当初フランス語は,学校で教えてもらわなければ喋ることも読むこともできない人工言語だったのである。フランス各地から徴兵された兵士たちに命令を伝えるために,統一した言語が必要だったのかもしれない。

 以後,国民国家(これが21世紀まで続いている「国」の概念である)の最大の目的は「戦争に勝つこと」,「戦争をすること」になった。いや,戦争をするために国民国家になったのだ。戦争をしない国民国家とはそもそも意味がないことになる。

 このような視点からこの映画を見直すと,また色々なものが見えてくると思う。


 そして兵器と戦争という点。

 兵器の開発の歴史とは煎じ詰めれば「いかに遠くから殺せるか,いかに大量に殺せるか」の開発競争である。素手よりは棍棒,棍棒よりは刀,刀よりは槍,槍よりは弓矢,弓矢より銃・・・という歴史はそのまま,遠くから殺せる武器への変遷だ。実際,室町時代でも戦国時代でも,日本刀が実際の戦闘に使われることはなく,主役は槍と弓矢と石礫であり,日本刀は首を切り落として戦功の証拠として提示するための道具であり,戦闘の武器ではなかったのだ。

 なぜ,日本刀が武器として使われなかったかというと,刀だとどうしても接近戦になり,刀が折れると自分が殺されるからである。その点,弓矢や石礫だと敵と距離が保てるため,やばくなったら逃げ出せるから安全である。

 その延長線上に現在のハイテク兵器であり核兵器だ。もうここまで来ると,敵はディスプレーに映し出される点に過ぎず,人間を殺すという生々しさを感じることなくボタンを押せば敵を殲滅できる。まさに兵器の理想である。


 この映画が描く「戦場の奇跡」はまさに,数十メートルという至近距離に塹壕を掘って対峙しあっていた20世紀初頭という時期だったからこそ起こったのかも知れない。

(2007/03/05)

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