著作者が死んだら,彼の作品は社会(人類)の共有財産だ


 私は個人的には,著作者が死んだ時点で私の著作権は消滅し,作品は「パブリック・コモンズ」,つまり社会の共有財産として公開され,自由にいつでも見られ,自由にコピーも引用もできる,とすべきだと思っている。なぜかというと,長い人類の歴史の中で,芸術作品にしろ学術的な論文にしろ,互いに引用し合いながら,新しい物が生み出されてきたからだ。

 パクリと引用は紙一重であり,厳密に分けること自体が不可能だ。これは「強い動物と弱い動物の区別をつけろ」「美味しい料理と美味しくない料理の区別は?」を論じるのと同じ。ラファエロもモーツァルトもゲーテも,最初は過去の作品を真似したりなぞったりしながら,次第に自分独自のものを確立していった。

 このあたりは,著作権の権化とも言うべきディズニーだって同じだ。ディズニーはアンデルセンやグリム兄弟の作品をパクってはそれをアニメにしているだけだ。それらの作品の著作権が切れているからパクろうが何しようが自由だ,というのは盗作した側の論理であって,盗作された側にとっては著作権が切れていようとなかろうと盗まれたことでは同じだ。

 大体,他人の作品を盗みまくっておきながら,自分の作品を盗むのはけしからん,というのはせこくて狡くないか? 盗人猛々しいとはこういうことを言うんじゃないか。
 以前,空き巣で生計を立てていた泥棒さんがいたが,彼の自宅は絶対に空き巣に入られないような完璧なセキュリティだった,という事件があった。まさにディズニーのお手本とも言うべき泥棒さんである。


 私は,自分の著作でいろいろな人の表現方法や言い回しを真似している。だから,自分の表現や言い回しを真似する人がいても気にしないし,抗議しようとも思わない。自分が真似している以上,私のものが真似されるのは当たり前だからだ。
 むしろ,「俺も真似されるくらい偉くなったもんだ」と吹聴したいくらいだ。


 こんなことを書くと,お前は盗作や模造品を作れと言っているのか,と文句を言ってくる連中が必ずいる。しかし,コピーを作れるものとは所詮,コピーを作りやすいものではないだろうか。コピーが簡単に作れるものだから,模造品が作れるのだ。

 この論理がおかしいと思う人がいたら,ストラディバリウスのヴァイオリン・コピーを作ってみたらいい。あるいは,ベラスケスの絵画,モーツァルトのオペラ,ベートーヴェンの弦楽四重奏の模造品を作ってみたらいい。作れたとしたら,あなたはモーツァルトやベラスケスと同じくらいの天才だ。

 世の中にラッセンのパチモン絵画が氾濫しているのはなぜか。それは真似しやすいからだ。あの程度の絵で金が取れるならちょろいもんだ,と思われているからだ。


 暴論覚悟で書く。真の創造的天才の作品は著作権法で守ってもらう必要なんて全くないのだ。誰も真似できない作品だから,「真似するな,コピーするな」と法律で規制する必要なんて微塵もない。
 逆に,著作権法も守ってやる必要があるのは,誰でも簡単に真似できるようなものを作って商売にしている連中だけだ。真似されやすいものを作って商売にしているから,法律で守って欲しいのだろう。そういう,さもしい根性が透けて見えるところが嫌だ。

(2007/01/12)

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