著作権法は一つのパラダイムに過ぎない


 著作権というものについていろいろ考えるようになったのは,以前,ピアノサイトを作っていた頃からだった。当時私はピアノの希少楽譜の収集をしていて,世界中から毎日のように珍しい楽譜が寄せられ,そのたびに仲間たちに楽譜をばら撒いていた。なぜばら撒いたかというと,私が持っていても弾く時間はないし,ピアノの腕もどんどん落ちるばかりだし,それなら,これらの曲が弾ける人に楽譜をあげて弾いてもらったほうが楽譜が喜ぶだろう,と単純に思ったからだ。
 要するに,私が珍しいピアノ楽譜をいくら持ったところで,それは「私蔵=死蔵」になり,楽譜は死んでしまう。楽譜は所蔵されるためにあるのでなく,演奏されるためにこの世に生まれたのだ,とそういう風に思っていたわけだ。だから,どんなに珍しい楽譜だろうと湯水の如く人に渡したし,私が無料で渡した楽譜で商売しているケチな野郎がヨーロッパにいる,と聞かされても,気にはしなかった。


 こういう単純な発想で楽譜を配布したのだが,それが一部のピアノマニアには許せなかったようだ。「それは著作権に違反している」というのが理由だったようだ。

 絶版になって再販される見込みのない楽譜を配布することが,なぜ著作権違反になるのか理解出来なかったが,何しろ反対する連中は「著作権法絶対堅持」,「著作権を守ることが人類の義務」と信じ込んでいる連中だったから,話が通じるわけがない。

 あまりにこの連中がうるさかったから,結局楽譜配布を止め,ピアノサイトの更新も止めてしまうことになった。


 ところが図らずも,私自身が本を書き,著作を「著作権法」で守ってもらえる立場になってしまったから,世の中,わからないものである(・・・とは言っても,守って欲しいと頼んだ覚えもないが・・・)。で,著作権で著作物を守ってもらえる立場になってみてわかったが,著作権法は著作者の権利を守るものでもなければ,著作者が新たな創作物を生み出す原動力にもなっていないのではないか,と思うようになってきた。著作権法の縛りがなければ世の中は違法コピーだらけになったとしても,それと「新たな創作活動が消滅する」ことは繋がらないのである。

 著作者としては,最低限の権利は認めて欲しいが,それ以上の権利は要らないな,というのが正直なところである。


 なぜなら,著作権法とは未来永劫正しい真理ではなく,単なるパラダイムに過ぎないからである。パラダイム(例:天動説)というやつは,パラダイムの内部に取り込まれた人間にとっては永遠の真理に見えてしまうが,パラダイムの外側(=地動説)に立ってしまうと,「何でこんなものを信じていたのか判らない」のである。新興宗教の信者は,自分たちだけが正しい信仰に生きていると信じているが,はたから見ると,「何でこんな変な教祖を信じているの? あんた,騙されているんだよ」としか見えないのと同じだ。

 著作権法は単なる一つのパラダイムである。パラダイムである以上,それは未来永劫正しい法律かもしれないし,フロギストン説同様に歴史の中で否定されてしまう概念かもしれない。

 法律や制度なんて,所詮は人間の決め事であり,人間が作ったものである。人間が作ったものである以上,人間が壊していけないわけがない。制度や法律は社会の規範としては大切だが,未来永劫正しい制度も法律もないのである。


 以下,この法律や制度に関する私の考えを,いろいろと書き散らしてみようと思う。

 まず次回は,「死後50年という著作権保護期間の無意味さ」について書く予定である・・・多分・・・。

(2007/01/02)

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