《シン・レッド・ライン》 (1998年,アメリカ)


 170分にも及ぶ長大な異色の戦争映画だ。この映画についての感想が書いてあるサイトを見ると,どちらかという否定的な評判が多いようだ。山場となる戦闘シーンはいいが,その他は長くてだらだらしているし,誰が主人公なのかがよく判らないし,哲学的な独白がやたらと長くて陰鬱で鬱屈しているし,映画全体を通しての起承転結というかストーリー性が希薄だからだ。


 だが,一兵士として戦場に突然駆り出され,放り出された時ってこういうものじゃないかと思う。戦闘はいつ始まるか判らないし,それがいつ終わるとも知れない。生死の分かれ目はまさに紙一重で,神のサイコロ遊びで死ぬ人が選ばれてゆく。起承転結が無いのは兵士の戦場での生活がそうだからではないだろうか。

 映画の中では,絶え間ない緊張に晒されている兵士が精神の変調を来す様子が描かれているが,そのような状態ではおかしくなる方が当たり前じゃないかと思う。

 この映画を見ていると,ジャングルを行軍する暑苦しさ,草をかき分けて匍匐前進で進む苦しさと不快さ,絶え間なく降り注ぐ銃弾の恐ろしさ,一発の砲弾で仲間が何人も吹き飛ばされる理不尽さが暴力的なまでに迫ってくる。3時間の間,自分も戦場にいて全身泥まみれになった気になってきて,口の中には泥の味さえしてくる。画面全体に漂う死臭に息苦しくなってくる。末端の兵士が直面する理不尽さが容赦なく迫ってくる。


 この映画を見ると,「祖国を守るための崇高な使命,正義の戦争」という言葉がいかに欺瞞に満ちているかがよくわかる。戦争を賛美する連中は,戦闘に参加せず戦場に行かなくてもいい連中だ。他人を戦争に送る立場にあるから戦争が気高く見えるのだろう。戦場から遠く離れた高いところから戦闘を眺めていていいのなら,戦争なんて気楽なものだろう。

 作中の一人の兵士の言葉が印象的だ。

「なぜ軍に志願したかって? 戦争が起きないと思っていたからさ。戦争が起きなければ安全な職場だと聞かされていたからさ。なのにまさか,戦争が起こるとは思ってなかったよ」。


 舞台は1942年のガダルカナル島。これはソロモン諸島(オーストラリアの北東部に位置する)最大の島である。当時日本はミッドウェー海戦で敗戦し,巻き返しを図るためにこの島を占領して飛行場を設営した。オーストラリアとアメリカとの間の補給ラインを分断するのが目的だったらしい。当時の日本海軍は,いずれアメリカが飛行場の存在に気づき反撃してくることを予想していたが,それは早くても1943年のことだろうと考えていた。

 しかし連合軍側は飛行場設営直後からその動きを知っていた。ソロモン諸島の重要性を知っていて,早くから多くの島に情報員を常駐させていたのだ。その点,日本軍は情報収集の重要性を全く理解しておらず,「アメリカ軍が来るとしても来年だろう」との希望的観測を前提に作戦を立てていた。これでは所詮,勝てるわけがない。

 そして,ガダルカナル島の210高地をめぐり,日本軍とアメリカ軍の間で激烈な戦闘が始まる。高地に陣取る日本軍はトーチカに立て篭もって四方を監視でき,一方のアメリカ軍はその監視をかいくぐって攻撃するしかない。こういう場合は防衛側が絶対に有利というのは戦争の常識である。


 だがその優位性はあくまでも「食料と武器を補充する兵站線が確保されている」ことが前提になる。兵站線が確保できなければ,いかに軍事的に有利な高地といえども,持久戦になれば餓死するしかないからだ。しかし日本軍には兵站線,つまり命綱が欠落していた。これが結果的に勝敗を決することになったのである。

 物量に勝るアメリカ軍はトーチカを迫撃砲で攻撃しつつ側面から少数精鋭部隊を回り込ませ,ついに210高地を占領する。これ以後,日本軍は太平洋の制海権を次々と失い,アメリカ軍が優位に立つのは史実である。

 実はこのガダルカナル島での日本軍はこの戦闘の前から深刻な飢えに苦しんでいた。ガダルカナル島が「飢島」と呼ばれた所以である。兵站線がなければ兵士は餓死するしかないのである。


 「兵站線と情報の軽視」は,いわば日本軍の伝統だった『参謀本部と陸軍大学校』,黒野 耐,講談社現代新書。食料は現地調達でやりくりし,情報は与えて貰うものであって自分たちで得るものではない,というのが明治以来の日本陸軍の基本方針だったのだ。これでは勝てる道理はない。

 映画の中では,210高地をアメリカ軍が占領して日本軍兵士がなすすべなく捕虜になるシーンが描かれている。このシーンに「日本人を馬鹿にするな! 日本軍はもっと激しく抵抗したはずだ」と怒る人がいるらしいが,飢餓状態におかれた兵士達が最後の心の拠り所を失った時にあっけなく降伏するのは,ある意味当たり前ではないかという気がする。

 この映画には,「行け行けドンドン」タイプのアメリカ軍将校が登場するが,その部下が「飲み水が確保できなければ突撃は無理です。後方部隊に連絡して飲み水を確保してから攻撃すべきです」と進言するシーンがある。「食料と水は現地調達」という日本軍の基本方針との根本的な違いであり,これが結果的に命運を分けたのだろうと思う。


 映画の冒頭,ガダルカナル島の元々の住民達の平和な日常生活が描かれ,子供達が海中をイルカのように泳ぐ様子が映し出される。そしてここにフォーレの『レクイエム Op.48』の最終曲,『天国にて In Paradismが流れる。溜息が出るほど美しいシーンである。戦場になるのはこの島なのだ,という事実の重さに言葉を失う。

 そんな島にいきなり日本軍がやってきて飛行場を作り,それを潰すためにアメリカ軍が上陸し,戦場になったのだ。この島の住民にしたら,日本軍にしてもアメリカ軍にしても,どちらも迷惑なことにおいては違いなかったはずだ。日本軍であれアメリカ軍であれ,昔からの島の住人にとっては侵略行為であり,略奪行為なのである。

 映画の中では,戦闘シーンの間に何度も動物や鳥,植物の美しい姿が映し出されている。日本軍やアメリカ軍の砲弾や銃弾は兵士だけでなく,島の住民や動植物にも降り注いだのだ。それが何とも痛ましい。


 今年(2006年),「高校の単位履修不足」が問題になっている。受験に関係のない科目や履修に負担の大きな科目(=世界史)の授業をせずに高校を卒業させた,という問題である。

 世界史を勉強する意味は何か。それは,過去に人類が犯してきた愚行,過ちを知ることだ。人類は過去からしか学べないから,過去に起きたことを教え,教わる必要があるのだ。その意味で,歴史教育とは自国の輝ける過去を学ぶことではなく,母国の悲惨な過ちを教えるものでなければいけないと思う。栄光の歴史より失敗の歴史の方から学ぶことが多いからだ。

 世界史は人間の愚行の展示場である。だから,私たちは世界史を学ばなければいけないのだ。

(2006/11/17)

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