《エミリー・ローズ》 (2005年,アメリカ)


 アメリカではかなり話題になった悪魔払い映画のようですが,全然面白くなかったです。悪魔とか,悪魔と神の闘いとか,魔王ルシファーの実在を本気で信じている人にとっては面白いというか,内容の深い映画なのかもしれないけれど,私のような完全無神論で論理的思考大好き人間にとっては,恐ろしくもなければ面白くもない映画でした。単なるお笑い映画でした。これだったら,超くだらないホラー映画を借りればよかったよ。。


 ま,要するにですね,アメリカで実際にあった事件を元に,この事件にかかわった弁護士が小説化し,それを映画にしたんだとさ。

 エミリー・ローズという大学に入学したばかりの女子学生に悪魔がとりついて,それを自覚した彼女が悪魔払いスペシャリスト(?)のムーア神父に悪魔を追い出すようにお願いするんだけど,神父の努力の甲斐なく彼女は死んでしまうんですね。それに対し,「これはエミリーが悪魔にとり憑かれたのではなく,単なる精神疾患にかかっただけだ。正しく治療をしていれば助かったのに悪魔がとりついたと思った神父が勝手に医者の治療を止めさせ,それが原因で彼女は死んだ」と言う理由で刑事事件になるんですよ。

 一方,神父の弁護士はこれが刑事事件ではなく本当に悪魔がとりついたもので,悪魔払いが失敗したのは精神病治療用の薬を服用していたためで,精神が悪魔に捕らわれた状態で固まってしまったためだ,とかいう風に反論するんですよ。

 で,映画は裁判での検察側と弁護側のやりとりと,エミリーが実際に悪魔にとりつかれていく様子,悪魔払いの様子を交互に映していく構成をとっています。エミリーの形相が次第に変わっていくところはそれなりに見せてくれます。ですが,普段からホラー映画を見慣れている目にとっては圧倒的に迫力不足ですし,体が捻れたように硬直してしまう彼女の姿は,気の毒だなぁ,何かの病気の徴候でこういうのがなかったかなぁ,と思っただけです。クソ真面目に作った分,迫力が失われたように思われます。要するにパワー不足ですね。


 何より,この映画の軸の一つである法廷場面がまるで駄目。医学的な事実や科学的な事実を元に神父の罪を告発する検察官と,悪魔の実在を信じさえすればこの事件は全く別の見方ができると論じる弁護側なんで,全く話がかみ合わないんですよ。弁護側は状況証拠というか,可能性を示すだけで,実際の証拠は提出できていません(そりゃあ,当たり前だろうな)。常識的論理で畳みかける検察側と,何とか架空の精神世界で誤魔化そうとする弁護側,どう考えたって検察側の圧勝,弁護側の負けです。

 エミリーが死の前夜に神父に宛てて書いた手紙が法廷で読み上げられます。そこには「神はいないという人がいるけれど,悪魔は確かにいるのです。悪魔がいる以上,神もまた存在するのです」とか書いてあるのですよ(内容,うろ覚えだけど・・・)。これを聞いたら,何だそりゃ,冗談も休み休み言えよ,とツッコミを入れるのが当たり前だと思うんだけど,実はこのシーンがこの映画最高の感動シーンらしいのです(実は私はここで笑いこけた)。おまけに映画のエンドロールでは「この事件で神への信仰に目覚めた人々が,エミリーの墓を熱心に詣でるようになった」とかいう説明が流れるのですよ。

 この程度の説明で神を信じるなんてアホらし! アメリカ人っておめでたいお馬鹿ちゃん! と微笑ましくなってきます。聖書をまともに信じているとこの手のアホができちゃうんですね・・・きっと。


 このエミリーの手紙にあるような論理のすり替えは,実はキリスト教の得意とするところです。例えばイエス復活の物語なんてその最たるものです。「イエスは死後復活されたと聖書に書かれています。だから復活を信じなさい」的な論理を連中は振り回しますが,これをまともに信じろと言う方が無茶ですよ。

 さて,ここで問題です。あなたはナザレのイエスです。ユダヤ教の教えを否定する新しい宗教を広めようとしています。しかし,その志半ばで捕らえられ,磔の刑で殺されました。しかしあなたには,死から復活できる能力が備わっています。あなたがイエスだったら誰の前で復活するでしょうか。自分の信者の前で復活するでしょうか,それとも,自分を殺した連中の眼前で復活するでしょうか。









 私だったら自分のことを信じないユダヤ教とかローマ皇帝の前で復活しますね。復活という最高のカードを切るならここですよ。彼らの前で予言通りに復活して見せたら,もうその時点でキリスト教は一人勝ちですよ。実際に復活した姿を見せたら,「俺も信者にしてくれ,俺もナザレのイエスを信じるよ」と入信者が列をなすはずです。ローマ帝国の皇帝だって,「復活できるのなら余も信者になろう」と言い出すはずです。くり返しますが,私がイエスならそうします。戦略的に最高のタイミングはここですから・・・。


 ところが実際の(?)イエスはそうしませんでした。彼が復活したのはペテロや何とかのマリアとか,イエスを信じている人の前だけでした。これは最悪のタイミング,最悪のパターンです。自分を信じている人の前で復活したところでこの連中は「ああ,やはりイエスは神の子だった」と再納得しておしまいだし,最初から信じていない人たちは,「信者のお前たちの言う事なんて信じられるわけないじゃないか。本当は復活していないんだろ? 嘘だろ?」でおしまい。

 せっかく死からの復活という最強のカードなのに,無駄な使い方をしています。私はこの時点で,イエスは無能だったと断じます。この「復活の場の判断ミス」のため,イエスを信じる人たちはその後何世紀もの間,苦難の道を歩み,しなくていい苦労をしたんじゃないですか? ローマ皇帝とかユダヤ教信者の前で見事に復活していたら,自分の教えは一夜でローマ中に広まったろうし,弟子たちも迫害を受けることもなかったはずです。ナザレのイエス君の愛は,弟子には向けられなかったようです。

 要するに,「確かに悪魔が実在するのに,あなた達は神を信じないのですか?」という論法は,「私たちがイエスの復活の姿を確かに見たというのに,あなた達はそれを信じないのですか?」という論法と全く同じです。論理が最初から破綻しています。論理といえないお粗末なタワゴトを一方的に押しつけているだけです。数々の『パウロ書簡』などを読むと,このような強引で非論理的な説明が満載です。なぜ誰もツッコミを入れないのか,不思議なくらいです。

 ちなみにこのような疑問,論拠の希薄さについての指摘はグノーシス派,カタリ派など,のちに異端とされたキリスト教側から繰り返し提出されていますが,正統キリスト教の基礎となるパウロ派からまともな回答が得られたことがなかったことは有名でしょう。


 この《エミリー・ローズ》のような映画をみると,論理のいい加減さと弱さ,都合のいいことだけ取り上げて都合の悪いところや反対意見には無茶苦茶な論理を振り回して相手を黙らせるという,ユダヤ教・キリスト教の弱点がはっきりと見えてきます。


 というわけで,この映画は敬虔なキリスト教徒の方だけ見るべきですね。まともな批判能力を持つ人は見てはいけません。笑い転げるだけでしょう。

(2006/10/02)

 

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