『生と死の自然史 ‐進化を統べる酸素‐』(ニック・レーン,東海大学出版局)


 本を読み終え,圧倒的な読後感とともに感動に満たされるのは最高の読書体験だ。そんな本に出会えるのは至福のひとときだ。本書はそのような幸福なひとときを与えてくれる一冊である。


 500ページを越す大著であり内容は極めて濃い。この一冊の本に含まれる膨大な知識と情報には圧倒される。酸素という物質の化学的特性,物理的特性,発見の歴史から説き初め,地球物理学,地球進化,生物進化,遺伝学,栄養学,医学とその知識は膨大であり,縦横無尽な語り口で生命の根元に迫ってゆくさまはスリリングですらある。どのページをめくっても新しい知識に出会える本であることは間違いないと思う。とにかく,この一冊の本に込められている知識量には圧倒されるはずだ。

 そして,文章も極めて明晰で理路整然としていて,それにふさわしく,日本語訳も見事である。そのため,極めて高度な内容でありながら,推理小説を読むような面白さがあり,読む者を飽きさせない。

 なにより,酸素という一つの物質に着目して,生物と文明の歴史を俯瞰するという発想が素晴らしい。以前,鉄という元素の特性を通してビッグバンから現在までの宇宙の変化を論じ,生命の誕生から人類文明の変遷までを網羅した傑作『鉄理論=地球と生命の奇跡』(講談社現代新書)を紹介したが,本書の構想はさらに壮大である。そして,酸素を通して生物進化の歴史を見直し,なぜ生物は老いるのか,有性生殖が生じたのはなぜなのか,といった生命の本質に根ざした謎について,極めて明確に回答を出しているのだ。


 生命にとって酸素は矛盾に満ちた物質だ。人間は酸素なしの状態に置かれるとすぐに死んでしまう。酸素あっての生命だ。しかし反面,酸素は極めて危険な気体だ。酸素があるとスーパーオキサイド・フリーラジカルという活性酸素を生じ,これが猛烈な生体毒性を持っているからだ。これは直接的にDNAを傷つけ,細胞を死に至らしめる。だから生命体は酸素を利用してエネルギーを得るメカニズムと共に,酸素に直接触れる細胞をできるだけ少なくするような工夫をし,各組織に酸素を届ける場合も鉄を含む蛋白質の内部に酸素を閉じ込めて外に漏れ出ないようにしている。それほど生命にとっては危険な物質なのだ。

 これは地球に最初に誕生した生命が直面した危機でもあった。35億年前の地球の大気には酸素はほとんど含まれていなかったが,大量に降り注ぐ紫外線のために水(海)が分解されて過酸化水素を生じたためだ。このため,地球に生まれた生命体は最初から酸化ストレスに対処するメカニズムを備えざるを得なかった。それがカタラーゼなどの酵素だ。

 そしてこの抗酸化メカニズムを基礎として光合成が生み出された。その結果,地球の大気は酸素を含むようになり,オゾン層ができることで地表や海に到達する紫外線量が少なくなった。紫外線で作られる過酸化水素はなくなったが,今度は猛烈な酸化作用を持つ酸素が大気に加わった。このため,大気(空気)に触れる機会のあるあらゆる生物は抗酸化メカニズムを獲得しなければ生きていけなくなった。この抗酸化メカニズムはその後のあらゆる生物に引き継がれ,多様な生命体を生み出す原動力にもなった。酸素呼吸は大きなエネルギーを生み出してくれたからだ。それがやがて走ること,飛ぶことを可能にした。


 一方,酸化によるストレスは老化・寿命・健康の根元にかかわっている。その根底にあるのが,ミトコンドリアDNAが被る酸化ストレスによるDNA損傷だ。核のDNAは酸化ストレスによる損傷を修復するメカニズムを持っているが,ミトコンドリアDNAはそのメカニズムが貧弱なのだ。
 しかし一方,修復機能に乏しいDNAしか持たないミトコンドリアが作るエネルギーに依存するのが真核細胞だ。だから,ミトコンドリアを持つ生物は,刻々と積み重ねられるミトコンドリアDNAの損傷から逃れることはできない。このミトコンドリアDNAへのスーパーラジカルの損傷が老化や老人病発症の引き金を引く。これは,酸素呼吸がもたらすエネルギー効率の高さというメリットと,酸素によるDNA破壊というデメリットのトレードオフなのだ,という著者の結論には説得力がある。

 さらにこの「酸素によるミトコンドリアDNAの損傷は修復できない」という問題が,性分化の本当の意味と,子孫に伝えられるミトコンドリアが母親由来であって父親由来でない理由の本質らしい。そしてこれは同時に,精子は生涯の長い時期にわたって作り続けられるのに,卵子は受精直後に作られ,それ以後新たに作られることがないという理由を,著者は明らかにする。このあたりの論理の展開はスリリングであり説得力がある。


 生命科学に興味を持つ人,医学に携わる人は本書を是非手にとって欲しい。本書を読み終えたあと,生と死,老化と病気,健康と長寿などのさまざまな現象が全く違って見えるはずだ。そして生命の糸が紡ぎ出す壮大で精妙な物語に感動するはずだ。

 まだこの本を読んでいない人は幸福だ。あなたにはこの本に出会えるという幸せが待っている。

 

(2006/07/07)

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