発明,発見物語はどれもこれも面白いが,これも非常によかった。いろいろなことを教えてくれるし,何より,読んで元気が湧いてくる。多くの人に読んでいただきたい本である。
現在,氷河時代とは何かを知らない人はないと思う。小学生だって氷河期とマンモスくらいは知っているだろうし,地球の歴史,生物の歴史にちょっと詳しい人なら,氷河期が何度も訪れていて,それが生物進化にさまざま影響を与えたことを知っているはずだ。また,「就職氷河期」なんて言葉が広く使われているほど,氷河期という言葉は一般化している。
ところが,氷河期という概念が広く認知されるようになってから,まだ150年ほどしか経過していないのである。ヨーロッパ大陸が広く氷に覆われていた時代がかつてあった証拠がある,と学会で発表するだけで大スキャンダルであり,その考えに賛同する専門家はごくわずかだった時代は,ちょっと前なのである。深い知識を持つ学者に確固たる証拠を提示しているにもかかわらず,大多数の学者たちは一笑に付したのである。
この本は,氷河期という概念を提唱し,その確立に重要な役割を果たした3人の科学者を中心に,19世紀半ばの欧米の科学界の様子を生き生きと描写しつつ,どのようにして異端の学説が人々に受け入れられるようになったかを見事に描いている。
主要な登場人物は3人。ケーン,アガシ,そしてライエルであり,それぞれが,本書のサブタイトルとなっている「詩人」「教師」「政治家(=策士)」の役割を担っている。氷河期という全く新しい概念を提唱し布教する「教師」,夢想家であり冒険家である「詩人」,そして,反対派と時には妥協しながらも自説の根幹を曲げず,いつの間にか反対派を打ち倒し,結果として主流派となる「政治家」,この3人がいたからこそ,異端の学説は定説となった。しかもこの3人は協力関係にあったわけでなく,ある時には敵対し(特にアガシとライエル),攻撃し合っていたのである。アガシにもライエルにも独自の学説とともにに神学(=信念)があり,神学部分が相容れなかったため敵対関係にあったのだ。逆に言うと,敵味方が入り乱れて己の信じるところを主張することで生まれるダイナミズムが,新しい学問を切り開くエネルギーだったのだろう。
アガシ(1807〜73)はスイス生まれの古生物学者。アマチュアながら魚の化石の研究家としてその名がヨーロッパ中に知れ渡っていた。彼は化石の研究から地質学(当時,生まれたばかりの学問分野である)にも興味を持ち,調べているうちに,ヨーロッパの各地に「氷河によってできたとしか考えられない地形」があることに気がつく。彼は休みなく精力的に各地の地質や地形を調べ,ヨーロッパ全体が氷河に覆われていた時代があったはずだという考えに到達する。彼は学者であり,そして闘士だった。
ライエル(1797〜1875)はスコットランド生まれ。最初は弁護士だったが途中から地質学に方向転換し,当時,地質学では最も有名な学者だった。ちなみにダーウィンはライエルの弟子にあたる。
そしてケーン(1820〜57)は医者にして探検家。途方もないことを考えるのが好きな夢想家である。彼は「緯度が高くなると寒くなるが,実は北極に近づくにつれて気温が上がり,北極中心には凍っていない海がある」という当時の常識の真相を確かめるため,船で北を目指す。しかし,グリーンランドの北岸で氷に閉ざされてしまう。極寒と飢餓が彼の隊を襲う。
当時から,磨耗していない巨岩がゴロゴロしている平らな地形がヨーロッパ各地にあることが注目され,誕生したばかりの地質学の専門家は,これこそが聖書の「ノアの大洪水」の証拠だと考えていた。聖書が絶対に正しいことを前提にしている社会だからである。
それに異を唱えたのがアガシだ。彼は洪水で運ばれた石なら磨耗しているはずだし,水が流れた地形ではないことに気付き,スイス・アルプスに残っている氷河の観察から,氷河によって運ばれ,削られたものではないかと考える。彼はスコットランドなどの地形を観察し,かつて氷河があったことを確信する。
しかし,それは多くの研究家にとっては受け入れがたいものだった。聖書の記述に反するからだ。聖書には大洪水のことは書いてあるが,氷が覆う世界があったとは書かれていない。聖書に書かれていないことはあってはならないわけで,彼らはアガシが提出するさまざまな証拠を無視する。
そんなアガシにも悩みがあった。彼は「神の愛」を信じていた。現実に生きているさまざまな生物はそれぞれの環境で生きているが,それは,生物を作った神が愛で守っているからだと信じていた。しかし,氷河期とはつまり,神が自ら創造した命を無慈悲に大量虐殺したことになる。つまり,彼自身の中でも,科学と神学の闘いがあった。
一方,ライエルは,これらの地形が氷で作られたにしても,それは氷河でなく氷山だったと考えた。氷河期という概念では極めて近いところに到達していたにもかかわらず,ライエルとアガシは,ちょっとした概念の違いで反目し合う。
氷河説にも弱点があった。その当時,ヨーロッパで氷河があるのはアルプスのみだったからだ。そのため,「氷河は高い山でできるもので,平地でできるわけがない。だから,高山のないスコットランドに氷河があったはずがない」という反論には答えられなかった。現在なら,「雪が降って温度が高ければ溶けるが,温度が低ければ溶けずに積もっていき,それが氷河になる」と考えるところだが,何しろ当時は「高山にある氷河」しかなかったのだから,「氷河=高山特有のもの」と考えてしまった。
そこで,ケーンが登場する。彼は1853年に旅立つが,グリーンランドで立ち往生し,なんと1年5ヶ月もの間,そこで閉じ込められるのである。彼がこの期間,どのように生き延びたかというサバイバル物語も凄絶だが,その中でも常に自然を観察し,平地が氷,すなわち氷河で埋め尽くされ,氷河が常に動いては水中に押し出されている様子をスケッチしているのだ。この科学者魂には頭が下がる。ケーンたちが必死の脱出行の末,何とか助け出され,その結果として氷河の詳細なスケッチと観察記録が欧米にもたらされる。
そしてケーンは2冊の本を出版する。これにより,氷河とはどのようなものなのかが広く一般に知られ,高い山でなくても氷河ができ,氷河により漂石が運ばれて堆積することが証明された。そして,氷河期という時代が実際にあったことが広く認められるようになった。
だが,物語はそれで終わらない。ケーンはこの冒険旅行で健康を損ね,本を出版してわずか1年ほどで死去するし,アガシは20年に及ぶ他の研究者との闘争に勝利するが,ここで「燃え尽き症候群」に陥り,結局,自分の研究を完結させることはなかった。ライエルは自説の間違っている部分を巧みに修正し,最終的には氷河学,氷河期学を完成させる。このようにして,氷河期という考えは常識となったわけである。
この本を読むと,目の前の自然をありのままに観察することの難しさがわかる。先入観や常識,そして自分の信念が観察眼を曇らせるのだ。これだけでも十分な障害なのに,欧米ではさらにキリスト教・聖書の教えが意識の一番深いあたりに食い込んでいる。これがさらに「あるがままの自然の理解」を難しくする。
そして同時に,見たことがない物(この本では「平地に拡がる氷河」がそうだ)を理解することがどれほど困難かも教えてくれる。だから,どんなにアガシが具体的証拠を提示してもそれを無視されることになったし,同時に,ケーンが現実の氷河のスケッチを証拠にその真の姿を伝えたとき,氷河期という考えを直ちに受け入れられたのだ。まさしく,「見ることは信じること」である。信じてもらうためには,見てもらうしかないのである。
全く新しい概念を信じてもらう難しさ,伝道師に必要な資質と戦術,信念を捨てない強さと信念を捨てることができる柔軟さ,そして,第三者にそれを伝えられる説明能力と表現能力,その全てが「新しい学説を提示する人間たち」に必要な能力なのだろう。
(2006/05/25)