『バイオフィルム入門 −環境の世紀の新しい微生物像−』
(日本微生物生態学会バイオフィルム研究部会 編著,日科技連)


 最近,細菌学の初歩的な本を読むことが多いが,これまで細菌のことについてほとんど知らずに創感染とか,感染予防を論じていたことを反省させられること,しきりである。要するに,医学しか知らずに,医学の常識で感染症の問題を論じても意味がないのである。感染症について論じるなら,まず細菌のことを知り,それを出発点にしなければいけないのだ。
 しかし,私が知る院内感染の専門科の先生の言動を見ると,細菌のことを全く無視して感染制御について論じているのである。その結果,人間の都合で院内感染対策を考えることになり,的外れで場当たり的な方策ばかり提言するのである。もうちょっと勉強したら,といいたくなる。


 そこでバイオフィルムである。10年ほど前から褥瘡や院内感染の論文に登場するようになったと記憶している。それらを読むと,「カテーテルなどには細菌がバイオフィルムを作っているため,消毒薬も抗生剤も効きにくくなり,細菌を除去するのが難しくなる」と説明されていることが多い。そこには「バイオフィルムなんてものを作るから医者が困っているんだ。細菌は細菌らしく,徒党を組まず,一匹一匹,ウニョウニョ泳いでいればいいんだ」というニュアンスが読みとれる気がするがどうだろうか。要するに,「細菌は単細胞生物だから,自然界では一個一個の細菌が自由勝手に動いていているんだろう」と考えてしまうのである。私自身,この本を読むまではそのように考えていた。自らの無知を恥じるばかりである。

 現実の細菌たちは「一匹一匹でウニョウニョ」ではないらしい。単細胞生物はバラバラに自由気ままに生きている訳ではないのだ。バイオフィルムを作って共同生活をしているのだ。
 つまり,バイオフィルムとは「細菌共同体」であり,自然界普遍のものである。決して,カテーテル内面にたまたまできるものではないのだ。医者が問題にするはるか大昔から,細菌たちはバイオフィルムを作って共同生活をしていたのである。

 というわけで,バイオフィルムの基本的知識を列記しようと思う。


  1. 世界にはいろいろな物があるが,物には必ず表面がある。表面があれば必ず微生物が付着する。

  2. 「表面」と水が接するところでは,複数の細菌が表面に付着して微生物共同体を作る。これがバイオフィルムである。

  3. バイオフィルム内では複数種類の微生物が共存している。

  4. 金属でもプラスティックでも,それを水(媒質)の中に入れると,その直後からイオンと有機分子の付着が始まり,ついで細菌の付着が起こり,次第に増えていく。細菌は細胞外多糖(Extra cellular polysaccharides, EPS)を産生し,他の細菌・微生物が共存できる環境を作る。

  5. 細胞外多糖類からなるマトリックス内部には複数種の細菌コロニーが存在している。コロニー間を密度の低いポリマーが埋め,そこは水が自由に移動するwater channelsとなっている。これは多核細胞生物体に極めて近い構造体であり,それがバイオフィルムの本質である。

  6. バイオフィルム内の酸素濃度,イオン濃度はwater channelからの距離,表面からの距離で異なり,μmのオーダーで勾配を作っている。このため,多様なニッチ(生態的地位)が生み出され,好気性菌と嫌気性菌など異なった代謝系を持つ細菌がμmオーダーで棲み分けている。

  7. バイオフィルム内では他種類の細菌が高密度で生息していて,お互いに代謝産物やエネルギー,情報のやりとりをしていて,遺伝子の交換も起こっている。このことで,単独の細菌にはない機能を生み出すと同時に,多種多様な環境変化にも対応できるようになる。

  8. 抗生物質のMIC,MBCは単一の浮遊菌で求められた値であるが,これは現実の細菌の生存形態(バイオフィルム)とは異なるものである。細胞レベルの浮遊菌の薬剤感受性はバイオフィルムに適応できないは当然である。


 以上は,本書の一部分を簡単にまとめただけだが,これだけだって多くの医療関係者には「目からウロコ」ではないだろうか。変化の激しい環境で生き抜くために,細菌たちはお互いに身を寄せ合い,生きるために情報を交換し合い,必死になって生き延びようとしているのだ。実にけなげである。

 このような細菌たちの姿を知ると,そんじょそこらの方法で除菌ができないことは簡単に理解できるだろう。何しろ,大豆のツルツルの表面にも細菌が巣くっているし,ステンレスの表面の微細の傷にもバイオフィルムが作られるのである。こういう現実を知ると,「創面を消毒して細菌数を減らす」というのが机上の空論,タワゴトでしかないことは明らかだ。何しろステンレス鋼内部にバイオフィルムを作り,金属を破断させる細菌ですらいるのである。金属内部にバイオフィルムを作ることの困難さに比べたら,人体の粘膜や創面に定着するなんざ,朝飯前なのである。

 消毒薬の効果にしても試験管内で調べられたものである。つまり,本来の生存形式であるバイオフィルムを破壊して,さらに,本来固着生活をしている細菌を浮遊させた(一個一個に強制的に分離し)条件で調べたものである。こういう状態で消毒薬が効いた,効いていない,と論じても無意味である。


 本書の最終章では医療分野における感染症とバイオフィルムの問題を取り上げている。これがとても示唆に富んでいて,しかも深いのである。ここでは,生態系全体から見た細菌と人間とのかかわり方を分析し,その上で感染症対策を考えている。この部分だけでも,医療関係者は読むべきだと思うし,読むべき価値がある。
 細菌の侵入と定着は避けられない自然現象である以上,「消毒したから安全」と短絡的に考えるのでなく,異変が起きたらすぐに異変と気付くシステムを構築すべきだと提言している。このあたりは,「フール・プルーフ(fool-proof:ミスをカバーできる)」,「フェイル・セーフ(fail-safe:ミスがあっても安全)」という安全管理の基本的考え方と一致していると思う。

(2006/04/28)

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