《サスペクト・ゼロ》(2004年,アメリカ)


 判りやすい映画と判りにくい映画がある。両者を分けるものは,その映画の世界を理解するのに必要な前提が一つなのか,複数なのかではないだろうか。もちろんこれは小説の世界でも同じである。

 この映画がわかりにくいのは,このような前提が二つあるからだ。一つは,タイトルにもなっている「サスペクト・ゼロ」というこの映画独自の設定,そして「超能力者」という設定である。


 この映画とはつまり,超能力を持った捜査官がサスペクト・ゼロを追う物語である・・・と,書いたが,これでは何のことかチンプンカンプンだろう。超能力は一般用語だけど,サスペクト・ゼロはこの映画にしか登場しない言葉だからだ。つまり,観客はサスペクト・ゼロがいったい何なのかを知らされないままに映画を見ることになる。しかも,この時点では超能力者が登場することすら知らされていない。これはさすがに辛い。

 「サスペクト・ゼロ」とは何か。この映画の主人公であるオライアン(超能力者でかつて犯罪捜査に協力させられていた)が存在を信じている犯罪者のことで,「アメリカ中を移動しては無差別殺人をしているが,証拠を残さず,決まった殺人パターンがないため容疑がかけられることもなく,それが連続殺人だと疑われることもなく,今もアメリカ国内を旅している」という存在らしい。

 まぁ,そういう犯罪者がいるという設定はそれなりに面白いと思うが,こういう「サスペクト・ゼロ」の存在を設定するのであれば,普通の捜査官が推理力と直感を頼りに次第に追い詰めていく,というサスペンス物にした方がわかりやすいし,それはそれで十分に面白い映画になったはずだと思う。だって,サスペクト・ゼロという存在自体が普通でないのだから,それ以外の登場人物は普通でないと困るのである。


 ところがこの映画ではさらに,「超能力者」が登場する。そしてその超能力でサスペクト・ゼロを探し当てるのだ。

 超能力を持った犯罪捜査官が犯罪捜査をする,という設定なら,それはそれでありと思うが,それなら相手にするなら普通の犯罪者にすべきではないか? この映画では途中辺りから,「こいつ,もしかしたら本当の超能力者という設定なんじゃないか?」と判ってくるが,それまでは「これって異常犯罪映画なんでしょう? まさか捜査官が超能力者なんてないよね」という気分だったため,「超能力者? そうならそうと早く言ってくれ」という気分になってしまった。
 後出しジャンケンみたいに「実は主人公は超能力を持っていて」と謎解きするのは反則だと思う。


 この映画はまず,行方不明の子供を捜すポスターみたいなので始まる。この時点ではスリラーか異常犯罪物かな? という感じである。そしてなぜか,上眼瞼を切り取られた死体が発見されるというシーンになる。この時点で気分はサイコスリラーかホラーかスプラッター映画かな,という気になる。

 次に,捜査官のマッケルウェイが登場。彼は犯罪捜査の途中でミスを犯し,左遷されたという設定である。その彼のところに,行方不明の子供たちの情報と意味不明の絵と,マッケルウェイに対する呼びかけ(みたいなの)が書かれているファックスが,突然送られてくる。この場面,意味不明のセピア調の短いシーンが挿入されたり,なにやら意味ありげな顔のアップなどが順不同で映ったり,意味不明のことを喋る怪しげな人物が登場したりするため,「この映画,これからどっちの方向に向かうんだろう?」と落ち着かないこと,夥しい(おびただしい)

 もちろんこれらの謎めいたシーンは後半,謎解きされるのだが,一度きりしかこの映画を見ない人にとってはこの細切れ心象風景シーン,かなり辛いものがあると思う。私はこの感想を書くために2度見たため,細切れ挿入画像の意味がすべて理解できたが,多分この映画を繰り返し見たいという人はそんなにいないと思う。


 この映画の売り物の一つが「上眼瞼を切り取られた屍体」である。つまり,目玉むき出しでありちょっとグロい。問題は,なぜ上眼瞼を切り取ったかだ。

 目玉剥き出し屍体になっているのは連続殺人(被害者がすべて子供なのが痛ましい)の犯人であり,彼らを殺したのは超能力者のオライアンだったことがわかってくる。超能力で連続殺人犯を見つけたという設定は許すとして,なぜ上眼瞼を切り取ったのかがよく分からないのである。最後の方でオライアンがマッケルウェイを誘拐し,「殺人犯を捕らえて動けないようにし,殺すと脅すと最後には命乞いをする。その顔が醜い。その醜い自分の顔を見ろと鏡を前に置く。見なければ瞼を切り取ると脅すんだ」というように説明するシーンがあった。この通りだとすると,オライアンは犯罪者に自分の弱さと醜さを認識させるために上眼瞼を切り取って,己の姿を強制的に見せた,ということになる。

 だが,この方法はあまりに回りくどい。それなら,上眼瞼を額にホチキスで縫い付けるかテープで貼り付けるだけで十分だからだ。なぜかというと,上眼瞼は血管分布が密であるため,映画のように切り取ると半端でなく出血する。止血も難しいだろう。だから,オライアンが瞼を切り取った直後に目は血で塞がれ,自分の顔を見るどころの騒ぎではないはずだ。

 では,いったい何のために,わざわざ手間隙かけて上眼瞼を切り取ったんだろうか,それとも,私が気がつかない別の理由があって切り取ったんだろうか。これが最後までよく分からないのである。


 そして,この映画のタイトルになっている「サスペクト・ゼロ」本人が最後にちょっとしか登場しない点も変。というか,こいつが本当にサスペクト・ゼロなのかどうかも明示されない。連続殺人犯であることは確かなんだけど,その手口は一切描かれない。サスペクト・ゼロが実在するこいつなのか,それともオライアンの妄想の産物なのか,最後まで不明のままである。それなら,わざわざ映画のタイトルにする意味,あったんだろうか?

 あと,捜査官マッケルウェイも超能力者だった,という設定もちょっとなぁ。確かに,マッケルウェイが普通人だったら,オライアンがわざわざマッケルウェイを指名してファックスで情報を送りつけた理由が説明できなくなるのは判るが,マッケルウェイも超能力者であった,という設定は必要なかったような気がする。彼が超能力者でなくても,この映画のストーリー展開に支障がないからである。


 設定が大袈裟な割りに,見終わってみると拍子抜け,という映画であった。

(2006/03/09)

 

映画一覧へ

Top Page